巣伏の合戦(すぶせのかっせん)<789(延暦8)年6月3日>
大墓阿弖流為[総大将:大墓阿弖流為][兵:1500]
大墓阿弖流為、盤具母礼
朝廷軍[総大将:紀古佐美][兵:5万2800(合戦参加は4千)]
紀古佐美、紀真人、多治比浜成、佐伯葛城、入間広成
概略
東北の蝦夷を制圧する為、本拠・胆沢に侵攻した紀古佐美率いる朝廷軍を、
蝦夷の大墓阿弖流為たものあてるい盤具母礼ばぐのもれが巣伏で破った戦い。
推移

≪桓武天皇の蝦夷征東軍派遣≫
 伊治呰麻呂の乱後も続く東北の叛乱を平定出来ないまま、光仁天皇は退位、
 781(天応1)年、代わって即位した桓武天皇にとっても東北平定は重要課題であったが、
 長岡京の造営や遷都に手間取り、平定の準備は788(延暦7)年の事となった。
 この年、桓武はいよいよ蝦夷制圧の準備に取り掛かる。

 同年2月、多治比宇美を鎮守府将軍に、 安倍猿島墨縄あべのさしまのすみなわ を鎮守府副将軍に任命する。
 そして3月には、東海道、東山道、坂東諸国から歩騎5万2800を徴発、更に膨大な兵糧を徴収する。
 兵は翌年3月に多賀城へ、兵糧は多賀城以下陸奥の前線基地へ7月までに搬入する事を命じた。

 同月末、征東副使に紀真人、多治比浜成、佐伯葛城、入間広成を任命、
 7月には紀古佐美が征東大使に任じられる。
 12月、古佐美は桓武天皇から節刀を賜り、
 坂東の安危はこの一挙にあり、将軍よろしく勉むべしと激励を受け、進発した。
 翌年3月9日、征東軍は多賀城に集結した。

≪胆沢城へ進発≫
 しかし、28日には胆沢に向かう途中、衣川を北に渡り、三隊に分かれて着陣したが、
 そのまま一ヶ月も滞陣したまま動かなかった。
 長引く蝦夷の叛乱で朝廷の東北支配網が破壊し尽くされ、
 征東副使の一人・佐伯葛城が陣中で歿すると云う事態に見舞われた為であった。
 5月になって、一ヶ月以上も動かない征東軍に業を煮やした桓武天皇から厳しい督促があり、
 それから数日して進軍を開始した。

≪巣伏の合戦≫
 4千の朝廷軍は胆沢の巣伏を目指して北上を開始、
 北上川西岸を北上する別働隊と合流し、蝦夷を挟撃して殲滅する手筈だった。
 この時、朝廷軍と対する蝦夷を指揮していたのが、阿弖流為と母礼だった。

 朝廷軍の三隊の内二隊が、北上川の渡河を開始、無事に東岸へ渡る。
 北上川東岸を進む朝廷軍は、14ヶ村800戸に火を点けながら敵に遭遇する事無く進軍していたが、
 漸く現れた蝦夷兵300を、少し衝突しただけで難なく追い散らしてしまった。
 勝利に勇み立った朝廷軍は、対岸の別働隊の動きも忘れ、これを追撃した。

 しかし、これは蝦夷の罠だった。
 300の蝦夷は退却と見せ掛け、朝廷軍を伏兵の潜む狭隘地に誘き寄せていた。
 巣伏付近に到った時、追撃する朝廷軍の前に突然800の蝦夷兵が現れ、朝廷軍に襲い掛かった。
 更に東の山中に潜んでいた伏兵400が側面、背面から攻撃を仕掛けた。

 一方、北上川西岸を進む朝廷軍別働隊の眼前にも蝦夷兵が出現し、前身を阻まれていた。

 孤立した巣伏の朝廷軍は三方からの突然の攻撃に慌てふためき、総崩れを起こす。
 そして北上川に追い詰められ、溺死する兵が続出した。

 結果は惨憺たるものだった。
 朝廷軍は、戦死25人、矢による戦死245人、溺死した者1036人で、
 武器を捨て、対岸に泳ぎ着いて助かった者は1257人だけだった。
 一方で蝦夷側の戦死者は89人であった。

≪敗退≫
 朝廷軍は、この大敗北でも主力を失った訳ではなかった為、
 朝廷の戦闘継続の命令に従って散発的な戦闘を行ったものの、戦果はあげられなかった。
 結局、征東軍首脳部の戦意と食糧が尽き、7月、紀古佐美は朝廷軍数万に帰国を命じる。
 そして9月8日、紀古佐美以下首脳部も長岡京へ帰還した。

 蝦夷制圧に失敗した桓武天皇は悔しがったが、長岡京遷都が巧く行かなかった為、
 直ぐに続く遠征軍を出す事は出来なかった。
 蝦夷の制圧は、坂上田村麻呂に引き継がれる事になる。

 
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