橘奈良麻呂の変(たちばなのならまろのへん)<758(天平宝字2)年> |
朝廷[総大将:孝謙天皇(41歳)、藤原仲麻呂(53歳)][兵:不明] |
孝謙天皇、藤原仲麻呂、 |
橘奈良麻呂[総大将:橘奈良麻呂(37歳)][兵:不明] |
橘奈良麻呂、道祖王、安宿王、黄文王、塩焼王、大伴古麻呂、大伴池主、
大伴兄人、 大伴古慈悲、賀茂角足、小野東人、多治比鷹主、多治比礼麻呂、多治比犢養 |
概略 |
孝謙天皇と藤原仲麻呂による専横に怒った橘奈良麻呂が、 密かに同志を集めて孝謙天皇を廃し、仲麻呂を殺害する事を企図した政変。 計画は事前に発覚し、橘奈良麻呂以下、多くの逮捕者を出して阻止された。 |
推移 |
≪藤原仲麻呂の台頭≫ 749(天平勝宝1)年、聖武天皇が譲位し、 阿部内親王が孝謙天皇として即位した。 孝謙天皇は母・光明皇后のために皇后宮職を紫微中台と改称、 組織の規模を八省と同程度に拡大し、中務省から独立させ、太政官と同格のものとした。 これにより、紫微中台は絶大な権力を持つ組織として変貌した。 紫微令を紫微内相と改称、藤原仲麻呂がこれに任じられる。 仲麻呂は孝謙天皇の寵愛を受け、急速に台頭して行く事になるが、 逆に橘諸兄は孝謙天皇の皇位継承に批判的だった為、 次第にその勢力を衰退する事となった。 755(天平勝宝7)年、諸兄の従者・佐味宮守が諸兄の朝廷批判を密告した事で、 諸兄は左大臣を辞職、その2年後に75歳で歿する。 756(天平勝宝8)年、聖武太上天皇が崩御、遺言により 孝謙天皇により廃され、仲麻呂の推挙で ≪橘奈良麻呂の謀議≫ 孝謙天皇と仲麻呂の専横に憤りを覚えていた橘諸兄の子・奈良麻呂は、 密かに同志を集め、叛乱計画を練った。 同年6月になると、奈良麻呂の叛乱計画を練る謀議が開かれる様になる。 最初は奈良麻呂の邸宅、二度目は 最後の謀議は太政官の院内の庭で行われ、叛乱決行日は7月2日に決まる。 この最終謀議には、奈良麻呂の他に、皇位継承に不満を持つ 仲麻呂政権から遠ざけられていた 天地四方を礼拝した後、塩汁を皆で啜り、孝謙と仲麻呂の打倒を誓い合った。 ≪橘奈良麻呂の叛乱計画≫ 奈良麻呂たちが立てた計画は大規模なものだった。 7月2日の払暁前に兵を出して仲麻呂の邸宅を襲い、仲麻呂を殺害、 その後、皇太子・大炊王を廃す。 次いで光明皇太后の宮を包囲、駅鈴と御璽を奪い、 右大臣・藤原豊成を奉じて天下に号令する。 そして、孝謙天皇を廃して、 この間、大伴古麻呂は陸奥鎮守府将軍として陸奥へ下向する振りをして、 途中の美濃国不破で関を封鎖、都へ引き返す。 仲麻呂から切り離して鎮圧の活動を封じ込める、と云うのが計画の内容だった。 しかし、佐伯美濃麻呂・巨勢境麻呂が、相次いで仲麻呂に計画を密告。 更に安宿王・黄文王の弟である山背王も、6月28日に計画を密告した。 この為、7月2日、光明皇太后と孝謙天皇は、諸臣に対して叛乱の計画を止めるよう、 警告を発した。 しかし、警告の後に中衛府の舎人・上道斐太都が、小野東人から謀叛参加を呼び掛けられたと、密告があった。 仲麻呂は直ちに道祖王の邸宅を包囲し、小野東人らを捕らえた。 同月3日、藤原豊成・藤原永手らが東人を訊問するが、東人は無実を主張する。 これを受けて、仲麻呂は橘奈良麻呂、塩焼王、安宿王、黄文王、大伴古麻呂らを呼び出し、 孝謙天皇が再び警告を発した。 ≪謀叛計画、露見≫ 同月4日、無実を主張していた小野東人、 この自白で、奈良麻呂を初めとする謀叛計画の加担者が次々と逮捕された。 逮捕された人々は、訊問に対して皆が謀叛を白状した。 道祖王、黄文王、大伴古麻呂、多治比犢養、小野東人、賀茂角足は同じ日、 百濟敬福や船王らにより、何度も杖で全身を打たれ、次々と絶命した。 道祖王は麻度比(マドイ=迷い者)、黄文王は久奈多夫礼(クナタブレ=愚か者)、 賀茂角足にはノロシ(鈍い者か)の醜名が与えられ、改名させられている。 奈良麻呂も同じく拷問死したと思われるが、 後に孫娘の嘉智子が嵯峨天皇の檀林皇后となった為、記録から削除されたと云う。 安宿王は佐渡島、大伴古慈斐は土佐国に流罪となり、 塩焼王は氷人真人塩焼として臣籍降下に処された。 この事件に連座して死罪、流罪、没官等になった者は443人にのぼった。 仲麻呂は、この政変に乗じて、自らの政敵を排除している。 藤原豊成の子・ 又、中納言・多治比広虫も、一族が謀叛に関わったとして辞任に追い込んだ。 ≪新旧の争い≫ この計画に加担した者たちの顔触れは、大和朝廷の草創期から家の職掌を以って、 代々仕えて来た伝統的な譜代豪族だった。 この事件は、新興の藤原氏の台頭に対し、伝統的な譜代豪族が連合して起こした謀叛だと考えられている。 |
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