藤原仲麻呂の乱(ふじわらのなかまろのらん)<763(天平宝字8)年> |
孝謙上皇[総大将:孝謙上皇(46歳)][兵:不明] |
孝謙上皇、吉備真備、日下部子麻呂、佐伯伊多智、藤原蔵下麻呂、物部広成、 坂上苅田麻呂、牡鹿嶋足 |
藤原仲麻呂[総大将:藤原仲麻呂(58歳)][兵:不明] |
藤原仲麻呂(恵美押勝)、藤原訓須麻呂、氷上塩焼(塩焼王) |
概略 |
藤原仲麻呂が、孝謙上皇と
仲麻呂の行動は総て後手に回り、三尾での戦いに破れ、斬殺された。 |
推移 |
≪藤原仲麻呂の栄華≫ 橘奈良麻呂の変により、藤原仲麻呂に抵抗する勢力は一掃された。 758(天平宝字2)年、仲麻呂の推す淳仁天皇を即位させ、 淳仁天皇から 更に朝廷の官職名を総て唐風に改めた上で、太保(右大臣)に任じられ、 760(天平宝字4)年には、祖父・不比等、父・武智麻呂も到らなかった太師(太政大臣)を拝命した。 しかし、彼の権力は、光明皇太后、760年6月7日の光明歿後は孝謙天皇、 彼女ら二人の後ろ楯があってのもので、本質的に不安定なものだった。 ≪弓削道鏡の台頭≫ 光明皇太后と云う後ろ楯を失った藤原仲麻呂が一族により政権を固めていた頃、 761(天平宝字5)年10月13日、淳仁天皇・孝謙上皇が保良宮へ行幸する。 この行幸先で孝謙は病に臥すが、 これにより、孝謙は俄かに道鏡を寵愛し始める。 孝謙上皇が寵愛の対象を仲麻呂から道鏡に移した事で、仲麻呂の栄華は暗転する。 危機感を覚えた仲麻呂は、淳仁天皇を通じて道鏡への寵愛を諌めるが、 これに孝謙は激怒し、怒りの余りに出家した。 そして、国家の大事と賞罰の大権の占有を宣告、淳仁天皇を無力化する。 孝謙は直ちに朝廷の中枢に孝謙・道鏡派を作り出し、仲麻呂の権力の切り崩しを開始する。 そして763(天平宝字7)年、藤原仲麻呂の政権転覆計画が発覚するに到る。 この計画の参加者は藤原良継、大伴家持、石上宅嗣、佐伯今毛人らであった。 この事件は、良継が全責任を負って姓と没官とする事で収束されるが、 焦った仲麻呂は、軍権を以って孝謙・道鏡らに対抗しようとする。 ≪藤原仲麻呂の乱≫ 翌年正月の人事で、仲麻呂は子・ 愛発・不破の関を押さえる要地に配した。 そして同年9月、仲麻呂は淳仁天皇から都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使を拝命する。 この職は、諸国の兵20人を都督衙(仲麻呂邸)に集め、五日間の軍事教練をする事が出来る規定があった。 拝命後、直ちに兵を集めようとして、太政官書記・高丘比良麻呂に諸国宛ての命令書を書かせるが、 その中では20人の筈の兵が600人となっており、これは軍事的に孝謙・道鏡らを排斥する為のものであった。 これに驚いた比良麻呂は、9月11日に孝謙に密告した。 報告を受けた孝謙は直ちに山村王を淳仁天皇の居る中宮院に派遣、 皇権の発動に必要となる駅鈴と御璽を回収させた。 これを知った仲麻呂は、子・ 更に孝謙上皇は仲麻呂邸に勅使・紀船守を送り、官位と藤原姓の剥奪を宣言させた。 後手に回った仲麻呂は、その夜、一族を率いて平城京を脱出、一端宇治へ行き、 自分が長年国司を務めた近江国を目指して進んだ。 しかし孝謙に召し出された吉備真備は、仲麻呂の行動を予測し、 行く手を塞がれた仲麻呂らは、琵琶湖西岸を北上して越前の辛加知と合流しようとするが、 又も佐伯伊太智に越前に先回りされ、辛加智は斬殺される。 淳仁天皇を連れ出せなかった仲麻呂は、 孝謙の朝廷に対抗するもう一つの朝廷を作り、諸国に号令する。 そして愛発関の突破を狙うが、物部広成らの抵抗により敗退する。 退却した仲麻呂は辛加知が既に始末されたとは知らず、越前に船で琵琶湖東岸に渡って入ろうとした。 しかし逆風に吹かれ、やむなく塩津に上陸、 再び愛発関の突破を図るが、伊太智らの抵抗で又も敗退した。 ≪三尾の決戦≫ 退却した仲麻呂は高島郡三尾の古城に拠った。 18日、これを孝謙方の軍は攻めるが、仲麻呂の軍は必死で戦った。 仲麻呂の勢い激しく、昼頃から夕刻にかけて戦闘は続いたが、 やがて孝謙側に 仲麻呂は妻子数人と琵琶湖に船を出して逃れるが、石村石楯に捕らえられ、 斬殺された。 氷上塩焼も捕らえられ、琵琶湖畔で処刑された。 ≪淳仁天皇への対処≫ 藤原仲麻呂の乱が平定された後の10月9日、淳仁天皇への対処として、 孝謙上皇は和気王、山村王、百濟敬福らを淳仁天皇の中宮院に派遣し、これを数百の兵で取り囲んだ。 包囲軍に淳仁天皇は捕らえられ、淡路国へ流罪となった。 孝謙上皇は重祚し、称徳天皇として即位する。 |
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