長屋王の変(ながやおうのへん) <729(神亀6=天平1)年2月10日〜12日>
藤原氏[総大将:藤原武智麻呂(50歳)・藤原房前(49歳)・ 藤原宇合(36歳)・藤原麻呂(35歳)] [兵:不明]
藤原武智麻呂、藤原房前、藤原宇合、藤原麻呂、中臣宮拠東人、 塗部君足、新田部親王、多治比池守
長屋王[総大将:長屋王(46歳)][兵:不明]
長屋王
概略
皇族首班として藤原氏の伸張に対抗していた長屋王が、藤原氏に滅ぼされた事件。
729(神亀6)年2月10日、長屋王に国家転覆の意思ありとの密告により、
藤原氏は長屋王の邸宅を包囲、長屋王とその子を自害させた。
光明子の皇后冊立に邪魔だった長屋王を、藤原氏が讒言により陥れたものだった。
推移

≪長屋王と藤原四兄弟≫
 長屋王は、天武天皇の子・高市皇子を父とする。
 716(霊亀2)年、正三位、718(養老2)年、大納言、721(養老5)年には従二位右大臣として太政官の首班となる。
 更に、724(神亀1)年、聖武天皇の即位と共に、正二位左大臣となった。

 しかし、720(養老4)年に藤原不比等が没すると同時に、
 不比等の子・武智麻呂むちまろ房前ふささき宇合うまかい、麻呂の四兄弟も、 朝廷の中枢へと進出、
 やがて、長屋王と藤原四兄弟は同程度の権力を持つに到る。
 そして、721年の班田実施に於ける対策案で、長屋王は百万町歩開墾計画を、
 武智麻呂側は三世一身を提示、両者は対立を見せる事になった。

≪藤原氏の権力拡大策≫
 藤原氏は、天皇との外戚関係を利用し、権力を握ろうとしていた。
 聖武天皇の母・宮子は不比等の娘であり、夫人・光明子も不比等の娘である。
 君臣の別の徹底を目指す長屋王には、藤原氏の行動はそれをわきまえないものとして映った。

 聖武天皇は即位の際、母・宮子を「大夫人」と尊称させる勅を出したが、
 長屋王は令の定める所によれば、「皇太夫人」と称するとあると異議を唱えた。
 聖武は書きを「皇太夫人」とし、読みを 「大御祖おおみおや」 とする様に命じ、勅を撤回をした。

 この中で浮上した新たな問題が、藤原氏による光明子の皇后冊立問題だった。
 聖武と光明子の間には、720年にもとい皇子 が生まれ、
 この皇子を異例の速さで皇太子としたが、基皇子は翌年死去する。
 更に藤原氏にとって悪い事に、同じ年に聖武の別の夫人・ 県犬養広刀自あがたいぬかいのひろとじ安積あさか皇子を産んだ。
 このままこの安積皇子が立太子すると、 藤原氏と天皇との外戚関係が維持出来なくなる。

 そこで、藤原氏は安積皇子の立太子を妨げつつ、 光明子の皇后冊立を成す策を考えたが、
 そこで邪魔になったのが、君臣の別の徹底を目指す長屋王だった。
 皇后は皇族から出るのが普通で、 臣下が皇后になるものではなかったからである。

≪長屋王の変≫
 そこで藤原氏は、長屋王の抹殺を謀る。
 729(神亀6)年2月10日、下級官吏の 中臣宮処東人なかとみのみやこのあずまひと塗部君足ぬりべのきみたりが、 長屋王に国家転覆の意思ありと密告した。
 これを根拠にして、その夜、直ちに伊勢・鈴鹿、美濃・不破、越前・ 愛発あらちの三関を固め、
 藤原宇合の率いる六衛府の大軍を以って、長屋王の邸宅を囲んだ。

 翌11日、藤原武智麻呂、 新田部親王にいたべのしんのう多治比池守たじひのいけもり らが罪を糾問するが、
 12日には弁明も許されないまま、長屋王と、その子・ 膳夫かしわで王、桑田王、葛木王、 鈎取かぎとり王は自害に追い込まれた。
 長屋王妃の吉備内親王も、夫と子の後を追い、自害した。

 この事件の一ヵ月後、藤原武智麻呂は大納言へ昇進、 半年後には光明子の皇后冊立が成る。

≪十年後の斬殺事件≫
 長屋王の変から十年が経った或る日のこと。
 かつて長屋王に仕えていた 大伴子虫おおとものこむしと、 長屋王を讒訴した中臣宮処東人とが囲碁に興じていた。
 その最中、話が長屋王の事件に及んだ時、 子虫は密告者が東人であった事を知り、
 東人を面罵した後に斬殺したと云う。

 その経緯を伝える『続日本紀』では、東人が 誣告ぶこく、偽証をしたと記している。
 長屋王の事件の十年後には、 既に長屋王の潔白は事実として認知されていた様である。

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