板櫃川の合戦(いたびつかわのかっせん)<740(天平12)年10月9日>
朝廷軍[総大将:大野東人][兵:1万7千]
大野東人、紀飯麻呂、額田部広麻呂、佐伯常人、阿部蟲麻呂
藤原広嗣[総大将:藤原広嗣][兵:1万]
藤原広嗣、藤原綱手、多胡古麻呂、藤原良継、藤原田麻呂
概略
藤原広嗣ふじわらのひろつぐ吉備真備きびのまきび玄昉げんぼうの 処分を求めて起こした、叛乱に於ける決戦。
九州に派遣された朝廷軍は板櫃川での決戦に勝利し、乱の鎮圧に成功する。
推移

≪藤原広嗣、左遷≫
 737(天平9)年に大流行した天然痘により、
 朝廷の実権を握っていた藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂の四兄弟が歿する。
 この後朝廷に台頭したのは、 橘諸兄たちばなのもろえ吉備真備きびのまきび玄昉げんぼうらであったが、
 宇合の子・藤原広嗣ふじわらのひろつぐ はこれと対立、藤原氏内部での孤立化も相まって、
 翌年の末に大宰府の少弐に左遷され、中央から遠ざけられた。

≪叛乱の条件が揃っていた九州≫
 大宰府は朝廷の九州出先機関で、西海道九国三島では絶対の権力を持ち、「大君のとおの御門」と呼ばれていた。
 この機関は、長官かみの大宰 そち以下、 次官すけ の大弐・少弐が管理するものであったが、
 この当時、帥は赴任せずに都に留まり、更に九州に広まっていた疫病の為に大弐は死去、
 少弐である広嗣が九州全域を掌握する立場にあった。

 この状況に加えて、九州では中央からの重税の徴収、相次ぐ飢饉と疫病によって疲弊し、不満に満ちていた。
 更に藤原広嗣の父・宇合は大宰帥や西海道節度使を歴任しており、人脈や地盤は整っていた。

 九州の地は、広嗣にとり、叛乱を起こすのに必要な条件は揃っていた。

≪藤原広嗣の乱≫
 740(天平12)年8月29日、藤原広嗣は吉備真備と玄昉を退けるようにと、上表文を提出するものの、容れられなかった。
 同年9月3日、ここに来て、遂に広嗣は大宰府管内九国三島の兵を集め、筑紫にて挙兵する。

 叛乱の報に接した聖武天皇は、直ぐさま大将軍に 大野東人おおのあずまひと、 副将軍に紀飯麻呂きのいいまろを任じ、
 五道(東海道・東山道・山陽道・山陰道・南海道)の 兵1万7千を動員して、討伐に向かわせた。
 この軍には、勅使・佐伯常人さえきのつねひと阿部蟲麻呂あべのむしまろが同行、 更に都に参勤していた隼人24人も従軍させた。

 西下した大野東人は、長門国の豊浦郡に本営を設けた。
 9月21日、額田部広麻呂ぬかたべのひろまろ が精鋭40人を率い、関門海峡を突破。
 9月22日には、佐伯常人・阿部蟲麻呂に兵4千を与えて渡海させると同時に、
 叛乱軍に投降を呼び掛ける勅符を数千枚ばら撒いた。

 常人・蟲麻呂率いる先鋒部隊は、三鎮の奪還を目指し、 板櫃いたびつ登美とみ京都みやこに軍を進めた。
 三鎮を攻撃した先鋒部隊はこれを奪還し、1767人の兵と多数の武器を捕獲する。
 更に京都鎮を指揮していた 小長谷常人こはせつねとと、 板櫃鎮の副官凡河内田道おおこうちのたみち を捕縛、殺害した。
 そして、板櫃鎮に本営を設置する。
 この戦況を見て、在地の諸豪族は朝廷側に参陣した。

≪板櫃川の合戦≫
 一方、藤原広嗣は、本営を筑前国遠賀おんが 郡の郡衙に設置、
 大隈・薩摩・筑前・豊後等の兵5千を集めると、鞍手道を進軍した。

 広嗣は、弟・綱手が豊後道を、腹心・ 多胡古麻呂たごのこまろ が田河道をそれぞれ進軍し、
 三方から朝廷軍を包囲して殲滅する作戦を考えていた。
 しかし、広嗣が1万の兵を率いて板櫃川西岸に着陣し、
 東岸の朝廷軍先鋒の常人・蟲麻呂と対峙した時、 綱手と古麻呂は未だ到着していなかった。

 10月9日、広嗣は、手勢1万だけで先鋒隊と戦う事を決意、 筏での渡河を開始する。
 朝廷軍はこれにおおゆみを浴びせ掛けて渡河を遅らせると共に、
 従軍させていた隼人に同族である叛乱の隼人の投降を呼び掛けさせた。
 そして、勅使の佐伯常人と阿部蟲麻呂の二人は、藤原広嗣に舌戦を挑んだ。

 広嗣はここでも吉備真備と玄昉の処分を要求するが、勅使の言葉に次第に返答が出来なくなり、
 遂に論破され、返答に窮した広嗣は黙ってしまった。
 この遣り取りを見た叛乱軍では動揺が走り、投降者が続出、
 先鋒を務める隼人の贈唹多里志佐そおたりしさ などは、投降して広嗣の作戦を総て報せてしまったと云う。

 結果、叛乱軍は壊滅、広嗣・綱手・古麻呂らは肥前国五島列島に逃走、
 そこから耽羅たんら島(済州島) へと渡ろうとするが、逆風に吹き戻されてしまう。
 10月23日、広嗣らは五島列島の僻島で捕らえられた。

 11月1日、広嗣・綱手・古麻呂は肥前で処刑され、
 処罰者は、死罪26名、没官5名、流罪47名、徒罪47名、杖罪177名にのぼった。
 広嗣の弟・良継は伊豆へ、田麻呂は隠岐へそれぞれ流されるが、 後に大赦で都に戻る事になる。

 乱平定後の翌々年の天平14~17年の間、
 広嗣の居なくなった大宰府は閉鎖、鎮西府が設けられ、 中央の監視下に置かれた。

≪聖武天皇の動向≫
 乱の起こっている間、聖武天皇は平城京を後にして、伊勢国に滞在する。
 11月3日、乱の平定が伝えられても平城京には帰らず、 恭仁くに京・ 紫香楽しがらき京と都を変え、
 翌年3月には国分寺・東大寺造営の詔を発する事になる。

≪玄昉と吉備真備のその後≫
 玄昉は745(天平17)年、藤原仲麻呂の台頭と共に筑紫国の観世音寺別当に左遷され、当地にて歿する。
 そして吉備真備も肥前国に左遷されるが、称徳天皇の下で右大臣として返り咲き、活躍した。
 真備が肥前国に居た時に造営した鏡宮は、藤原広嗣を祀ったものと云う。

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