伊治呰麻呂の乱(これはりのあざまろのらん)<780(宝亀11)年>
伊治呰麻呂[総大将:伊治呰麻呂][兵:上明]
伊治呰麻呂
鎮守府[総大将:紀広純][兵:上明]
紀広純、大伴真綱、道嶋大楯
概略
780(宝亀11)年、覚鱉かくべつ城建設の為に 伊治城を訪れた紀広純らを、
広純に従軍していた 伊治呰麻呂これはりのあざまろが 突如として俘囚の軍を動かし、攻め殺した事件。
俘囚らは広純らを殺害した後、多賀城を攻め、これを陥落させた。
推移

≪朝廷の対蝦夷政策≫
 律令体制の定着を進める朝廷は、投降した蝦夷に対し田地を与え、
 彼らを柵戸きのへとして定着させ、 首長に対しては郡司を任命する方針を採っていた。
 所謂東北蝦夷の同化政策であるが、その成果は着々とあがっているかに見えた。
 しかし、770(宝亀1)年8月4日に称徳天皇が崩御して以後、
 それまで同化政策に朊していたかに見えた蝦夷が、俄かに叛乱の動きを見せ始めた。

≪蝦夷の叛乱≫
 称徳天皇崩御と同じ年、朝廷より冠位を叙位され、
 蝦夷を監督する立場にあった俘囚・ 宇漢迷公宇屈波宇うかめのきみうくはうが 仲間を率いて出奔した。
 774(宝亀5)年、宇漢迷公宇屈波宇は 桃生ものう城を攻め、これを陥落させる。
 これを皮切りに、出羽各地に叛乱は拡がった。

 当時の按察使あぜち兼陸奥国鎮守府将軍であった大伴駿河麻呂は、
 一度は桃生城付近の 登米とめを攻撃するものの、病に倒れた。
 駿河麻呂の後任として陸奥に赴任したのが、 紀広純きのひろずみであった。

≪紀広純、伊治へ≫
 紀広純は、蝦夷の本拠と目される胆沢を制圧すべく、
 船による攻撃を準備する一方で、 胆沢への前線拠点として覚鱉かくべつ城 を築こうとしていた。
 この覚鱉城建設に際して伊治城を訪れた時に広純が率いていたのが、
 陸奥介・大伴真綱おおとものまつな、 牡鹿郡大領・道嶋大楯みちじまのおおたて、 そして伊治郡大領・ 伊治呰麻呂これはりのあざまろであった。

 呰麻呂は元々伊治城付近の蝦夷の首長であり、朝廷の進める同化政策に従い、
 支配下の蝦夷と共に朝廷に降っていた。
 そして778(宝亀9)年6月25日、朝廷の信任を得て、外従五位下に任じられた。
 陸奥按察使・紀広純は呰麻呂を初めは嫌っていたが、後には信用する様になったと云う。
 しかし、道嶋大楯は呰麻呂を夷俘として侮蔑しており、呰麻呂はこれを深く恨んでいた。
 叛乱を起こすまで呰麻呂は自分の気持ちを隠し、何気なく装っていたと云う。

≪伊治呰麻呂の乱≫
 780(宝亀11)年、紀広純は大伴真綱、道嶋大楯、伊治呰麻呂を率いて伊治城へ到着。
 すると、突如として呰麻呂を俘囚の軍を動かし、叛乱を起こした。
 呰麻呂は先ず道嶋大楯を殺害、次に紀広純を包囲して攻め殺した。
 大伴真綱だけは殺さず、囲みの一角を開いて多賀城へ逃がした。

 多賀城には武器・糧食の備えが豊富だった為、
 城下付近の住民は、多賀城に依って呰麻呂に抗戦して城を護ろうとした。
 ところが、真綱はじょうの石川浄足と共に、 密かに後門から脱出、城に入った住民たちもやむなく逃げ散った。

 数日後、俘囚の軍が多賀城を占拠、城内の備蓄を略奪して城に火を放ち、北方へ去った。

≪朝廷の対応≫
 この叛乱の報を得た朝廷は驚き、直ちに 藤原継縄ふじわらのつぐなわを征東大使、
 大伴益立おおとものますたて紀古佐美きのこさみを征東副使、 安倊家麻呂あべのいえまろを出羽鎮狄に任命、東北へ派遣した。

 しかし蝦夷の抵抗に苦しみ、征東の戦果は中々挙がらなかった。
 朝廷は継縄を解任、 藤原小黒麻呂ふじわらのおぐろまろを 後任とし、陸奥鎮守府副将軍に 百濟俊哲くだらのしゅんてつを任命し、派遣した。
 小黒麻呂が率いた兵は歩騎数万と云う規模であったが、征東は遅々として進まない。
 俊哲などは、蝦夷の軍に囲まれ、辛くも脱出すると云う有様だった。

 結局蝦夷の叛乱を平定出来ないまま、781(天応1)年6月、小黒麻呂は征東軍を解散、
 8月に捗々しい戦果も挙げられず、虚しく平城京へと帰還した。
 小黒麻呂率いる征東軍の戦果は、蝦夷4千余人の内、僅か70余人であったと云う。

日ノ本備忘録≫日ノ本合戦録へ戻る
【夜明け烏】項目一覧へ戻る