両面宿儺の乱(りょうめんすくなのらん)<400年代初頭(仁徳天皇65)>
大和朝廷[総大将:難波根子武振熊命][兵:不明]
難波根子武振熊命
飛騨の豪族[総大将:両面宿儺][兵:不明]
両面宿儺
概略
飛騨で大和に抵抗を続ける豪族に対し、
大和が難波根子武振熊命なにわのねこたけふるくまのみことを派遣して征伐した戦い。
推移

≪両面宿儺≫
 『日本書紀』仁徳天皇六十五年条に、以下の記事がある。

 その頃飛騨に一人の怪人が居た。  人呼んで宿儺すくなと云う。
 その胴は一つでありながら、顔は二つ有り、それぞれ正反対の方を向いていた。
 又、手足も其々四本ずつあって、力は強く、動きは敏捷だった。
 左右に二つの剣を帯び、四本の手で二組の弓矢を使った。
 勅命に従わず、飛騨の人々に略奪を繰り返し、苦しめていた。
 その為、天皇は和珥臣わにのおみの祖・武振熊たけふるくま を派遣して、その怪人を成敗した。

 この両面宿儺と云う人物は、大和朝廷に まつろわない飛騨の豪族、又は首長であったと考えられている。
 この記事は、飛騨の征服と云う歴史を表わしているものと思われる。

 宿儺の「儺」と云う文字には、「追儺」と云う、現代では節分として残る、
 大晦日の夜に悪鬼を払い疫病を除く儀式を表わしている。
 「宿儺」には、「人に宿る悪鬼や疫病を追い払う」と云う意味があると解釈出来る。
 しかし、朝廷側としては、服わぬ両面宿儺の「儺」を「鬼」自体とし、「鬼が宿る(鬼神)」としたのではないだろうか。

 伝承では「飛騨国蜂賀の岩窟より宿儺出現」と伝えられる。
 秀峰乗鞍岳の麓、丹生川にゅうかわ村 日面・出羽ヶ平の岩窟がその地とされ、宿儺の住処と伝えられる。
 宿儺の姿は、身の丈一丈、胴は一つでありながら二つの顔を持ち、
 剣・弓・斧を巧みに操る四本の手と四本の足、五十人力の怪力とされている。

 飛騨から美濃に及ぶ地域を統率し、神祭りの司祭者、又農業の指導者として立っていた。
 開拓の人として、人々からは「宿儺僧都」「スクナさま」と呼ばれて慕われていた。
 その感情は、円空がこの地に訪れる江戸期にも続いていたと云う。

≪朝廷軍の侵攻≫
 難波根子武振熊命なにわのねこたけふるくまのみことの軍勢は、近江・美濃を経て飛騨に入り、飛騨川を遡って進軍した。
 その途上、櫻山八幡宮などで先帝応神天皇の霊を祀り、戦勝の祈願をしたと云われる。
 武振熊命は、丹波国造武振熊宿禰たんばのくにのみやつこたけふるくまのすくねとも呼ばれる。

 大和が討伐の軍を起こした事を知った宿儺は、手勢を連れて美濃国まで赴き、高沢山で朝廷軍を待ち伏せた。
 しかし、武振熊は宿儺の隙を突いて攻め、宿儺を敗走させる。
 追撃する武振熊が中津原まで到った時、北に向かって白い鳩が飛び立った。
 これを見た武振熊は宿儺が北に居ると考え、北に進軍した。

 やがて乗鞍岳が現れ、その麓にある岩窟を見て武振熊はそこに宿儺が居ると確信、岩窟への進軍を命じた。
 すると、武振熊の予想通りそこに退いていた宿儺は、最後の防戦を試みるものの、奮戦虚しく捕縛される。

 武振熊は宿儺に投降を薦めるが、それを拒む宿儺を止む無く斬ったと云う。
 しかし、捕らえられ抵抗した宿儺の頸を刎ね、体を飛騨に埋め、頸を大和に持ち帰ったとも、
 追い詰められた宿儺が善久寺近くの洞窟に立て籠もり、そこで頸を括って死んだとも云われる。

≪両面宿儺に関わる伝承≫
 美濃から飛騨にかけて、宿儺を開基とする寺社が幾つもある。
 大野郡丹生川村下保(現在は高山市に編入)の千光寺や、千光寺と同じく丹生川村の善久寺、
 武儀郡武儀町下之保(現在は関市に編入)にある日龍峯寺、
 16柱の水無大神を祭る高山市の 飛騨一宮水無ひだいちのみやみなし神社が、 宿儺の開基だと云われている。

 又、袈裟山も、宿儺によって開創されたと云われる。
 伝承には、宿儺は山中で石棺を見付け、中に法華経と袈裟、千手観音像が入っていた事から、
 その観音を本尊とし、山号を袈裟山としたと伝えられる。
 更に、民を悩ます悪竜を退治し、民を助けると云う伝承も残る。

 他にも、位山に関わる伝承がある。
 宿儺は或る山の主で、天ノ船に乗って来て、そこで神武天皇に王位を授けたと云う。
 そこからその山を「位山」と言い、彼が天ノ船を泊めた場所が「船山」であると伝えられている。

≪円空の両面宿儺像≫
 円空は生涯で12万体の仏像を刻んだと云われる、江戸期の人物。
 千光寺に留まったのは晩年であるが、ここには63体の円空仏が収められている。
 その中の一つ、両面宿儺像は、慈悲の顔の肩の上に、憤怒の顔を並べてあり、
 二つの表情を同時に見せている。
 因みに、千光寺の本堂にある両面宿儺像は、 頭の前後に顔が付く武将像である。

 千光寺に滞在した円空は、両面宿儺の話を村人から聞いた。
 日本書紀が伝える怪人でも無く、民に略奪を繰り返す凶賊でも無く、
 人々から尊崇された人物だったと、その当時でも慕われていた。
 そんな村人の為に両面宿儺像は円空によって刻まれた、と云われている。

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