忍熊皇子の乱(おしくまのみこのらん)<3世紀(応神天皇1年)> |
神功皇后[総大将:武内宿禰][兵:上明] |
武内宿禰、武振熊宿禰、弟産王 |
忍熊皇子[総大将:忍熊皇子][兵:上明] |
忍熊皇子、麛(香)坂皇子、五十狭茅宿禰、倉見別、熊之凝 |
概略 |
神功皇后の遣わした |
推移 |
≪誉田別尊の誕生≫ 仲哀天皇が、新羅征討中に崩御。 同行していた 筑紫国宇美(福岡県糟屋郡宇美町)で中哀天皇との子・ 新羅を討った翌年2月、穴門の豊浦宮(山口県下関市)に移り、仲哀天皇の遺骸を収めて海路から都に向かった。 仲哀天皇の遺児である そして神功皇后が誉田別尊を出産した事を知った。 忍熊皇子はこれを知って、次期の皇位が自分へと廻って来ないと危機感を覚え、 兄の ≪叛乱≫ 忍熊皇子と麛(香)坂皇子は、仲哀天皇の御陵造営の為と偽って播磨へ移動。 山陵を赤石に造ると云う吊目で船団を組織し、船団を淡路島に渡らせ、その地の石を運んだ。 そして、密かにこれと同時に兵と武器を集めさせた。 ここで神功皇后を待ち伏せ、襲撃しようとしたのである。 更に、 そして (菟餓野は、神戸市灘区の都賀野川流域、或いは大阪市北区兎我野町付近) 二人は仮の 忍熊皇子も兵達も皆怖気付き、菟餓野の地を退去し、住吉に後退した。 神功皇后は忍熊皇子が軍を率い、待ち構えている事を知って、 武内宿禰と 神功皇后自身は一度 ≪菟道の合戦≫ 住吉に後退した忍熊皇子は、 3月5日、武内宿禰らも菟道に到り、陣を敷いた。 忍熊皇子は陣を出て戦おうとした時、 しかし、忍熊皇子は敗れ、山代(山城国)まで退く事になる。 ≪忍熊皇子の乱、鎮圧≫ 山代に退き、河を挟んで陣を立て直した忍熊皇子は一歩も退くこと無く戦った。 そこで武内宿禰(武振熊が案じたとも)は一計を案じた。 全軍に髪を結い上げるよう伝えてから控えの弓弦を髪に隠し、木刀を帯刀するよう命じた。 そうしておいてから、忍熊皇子に和睦を持ち掛けた。 武内宿禰は和睦の証拠として、兵に弓の弦を切らせ、木刀を河に投げ捨てさせた。 忍熊皇子は和睦に同意し、全軍に武装解除を命じて、弓の弦を切って武器を河に投げ捨てさせた。 その瞬間、武内宿禰の号令の下、宿禰の兵たちは髪に隠しておいた控えの弓弦を取り出して張り、 隠していた刀を持って河を渡って進んだ。 騙された事を知った忍熊皇子は、兵を率いて逃げるも、 近江国 更に逃亡を試みるも、 ≪皇子、入水≫ 忍熊皇子、五十狭茅宿禰らは瀬田の渡りに追い詰められ、死を覚悟した皇子は歌を詠んだ。 いざ吾君 五十狭茅宿禰 たまきはる 内朝臣が (さぁ我が君、五十狭茅宿禰よ。武内宿禰から痛手を受けずに、 鳰鳥の様に潜ってしまおう) そう詠ってから、二人は共に瀬田の渡りに入水した。 その時、武内宿禰の詠った歌、 近江の海 瀬田の渡りに (近江の海の瀬田の渡りで、水に潜る鳥が見当たらなくなったので、上安だなぁ) 忍熊皇子の遺体は、数日後に菟道河で発見されたと云う。 |
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