国栖討伐戦(くすとうばつせん)<3世紀〜4世紀頃>
大和朝廷[総大将:建借間命][兵:不明]
建借間命
国栖[総大将:夜尺斯、夜筑斯][兵:不明]
夜尺斯、夜筑斯
概略
大和にまつろわぬ常陸国の 国栖くすに、 建借間命たけかしまのみことを派遣して 征伐した戦い。
推移

 『常陸国風土記』行方なめかた郡の条に、 古老の話として載る戦い。

≪建借間命の侵攻≫
 3世紀から4世紀頃、大和は東国辺境を平定する為、 建借間命たけかしまのみことを派遣した。
 建借間命は道中、賊を平らげながら常陸国に到着、 安婆あば島(茨城県阿波崎か)に屯営した。

 安婆島から東の霞ヶ浦を臨む浜辺を見ると、煙が立ち昇るのが見えたので、
 人が居るのだろうと考えた建借間命は天を仰ぎ、
 「あの煙が朝廷にまつろう者の出す煙なら、 私の頭上へ。荒ぶる賊の者ならば、海の方へ靡け」
 と言うと、煙は海の方へ靡いた。
 そこで建借間命は霞ヶ浦に居る者を賊として、征伐する事にした。

≪国栖の民≫
 その煙は国栖くす 夜尺斯やさかしと、 夜筑斯やつくしの一族のものだった。
 国栖とは、大和に従わない地方の土着民の事で、土蜘蛛とも呼ばれていた。

 夜尺斯と夜筑斯波の二人は国栖の長で、彼らは国栖の民を率い、土窟に籠って建借間命の軍に抵抗した。
 軍勢が襲来すると、国栖は土窟に逃げ籠もるので、建借間命は中々攻め滅ぼす事が出来なかった。

 そこで建借間命は一計を案じ、死を怖れない兵を軍の中から選出し、 彼らを山の窪みに潜ませた。
 そうしてから他の兵には船を並べた筏を作らせ、そこで七日七夜、宴会騒ぎをさせた。

 そうしている内、国栖の民は宴会騒ぎの音に釣られ、土窟から出て来た。
 最初は恐る恐るだった国栖の民も、何も罠が無いと思うと、やがて怖れる事無く浜辺に降り立った。
 これを待っていた建借間命は、先に伏せておいた兵に土窟を閉鎖させ、
 国栖に対して背後から急襲させた。
 浜辺に降り立った国栖は逃げ場を失い、撫で斬りにされてしまった。

 この時、「痛く殺す」と言った所は、 後に伊多久いたくの地となり、
 「ふつに斬る」と言った所は、 布都奈ふつなの地、
 「安く斬る」と言った所は、安伐やすきりの地、
 「 くと言った所は吉前さえきの地になったと云う。
 因みに、「ふつ」とは、 古代に於いては剣の代名詞で、剣の神を「臨主尊」と云う事もある。

≪佐伯の民≫
 大和による各地の土着民征服の過程では、この様な殺戮があったのだろうと推測に難くない。
 同じ常陸国での似た様な話を下に挙げる。

 常陸国に居た佐伯さえきの民は、 土窟を掘って家としていた。
 大和から派遣された黒坂命はこれを知り、佐伯の人々が出払っている隙に、
 家の中に鋭い棘のある茨の木を詰め込んでおいた。
 人々が帰って来ると、騎兵によって棘の詰め込んである家へと追い込んだ。
 追い込まれた佐伯の人々は茨に突き刺さって、次々と死んで行った。
 そこから「棘茨を取りて、県の名に」付け、茨木と云う名になったと云う。

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