倭國大乱(わこくたいらん)<2世紀後期> |
概略 |
2世紀後期(弥生時代後期)の日本、当時の倭國で起こったとされる争乱。 邪馬台国を盟主とし、争乱状態にあった国々が共立した卑弥呼を女王とする事で、収束を見た。 |
推移 |
≪倭國の男子王≫ 倭國には代々男子王が就いていたが、倭國は大乱が巻き起こった。 後漢書『東夷伝』に、107(永初元)年に倭國王の帥升が後漢へ使者を出したとの記事が載っている。 一説には、この帥升が中華王朝の認めた倭國初の王であったとし、 帥升以来、代々男子王で続くこの倭國王の座を巡って、倭國内の国々が相争ったと云う。 この男子王の座を巡る争いの延長線上に、この倭國大乱があるのかどうかは不明である。 ≪大乱以前の倭國≫ 後漢書『東夷伝』に以下の内容が載る。 「桓・霊の間、倭国大いに乱れ、こもごも相攻伐し、歴年主無し」 桓・霊とは、後漢末の第11代皇帝桓帝と第12代皇帝霊帝のことで、 それぞれの在位年代を合わせると、紀元147年から188年。 この頃の日本は倭と呼ばれていた。 倭とは「遥か遠き東南海の果てより廻り来たった夷人」と云う意味である。 紀元前一世紀頃、倭は百余国に分かれ、定期的に朝鮮半島にある楽浪郡に入貢していたと云う。 紀元57年には、倭の国々の中の一つ「奴国」が後漢の洛陽に使者を送り、光武帝から金印を授かっている。 この金印は、江戸期の1784(天明4)年、筑前國(福岡県)粕屋郡志賀島の畑中から農民により発見された。 金印には「漢委奴國王」と彫られているが、 「漢の委(わ)の奴(な)の國王」と読む説や、「漢の委奴(いと)の國王」と読む説などがある。 更に107年には、倭の「面土国」の王が後漢に生口と呼ばれる奴隷を160人献上した。 奴国、面土国共に、北九州にあった国々と想定されている。 ≪東亜の動乱≫ この様に、この頃の日本には後漢の影響力が強くあった為、後漢の国乱は朝鮮半島を経て、日本列島へと波及した。 紀元二世紀になると、後漢では幼年皇帝の即位が続き、宦官や外戚が勢力を伸ばした。 朝廷は国政を顧みない者達の政争の舞台となり、国や皇帝の権威は失墜する。 184年には張角による黄巾の乱が発生し、やがて曹操や劉備、孫権らによる三國鼎立の時代に入る事になる。 この事態の影響は、後漢の勢力の及ぶ周辺地域に拡がった。 朝鮮半島では後漢の楽浪郡が衰退し、半島北部の高句麗は南下を始め、 半島南部の三韓は部族連合を形成し始めた。 日本列島もこの影響を受け、東亜の動乱に巻き込まれて大乱が勃発するが、 この最中に邪馬台国の女王・卑弥呼が現れ、大乱は収束された。 |
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