倭國再乱(わこくさいらん)<247年>
邪馬台國[総大将:卑弥呼][兵:不明]
卑弥呼
狗奴國[総大将:卑弥弓呼][兵:不明]
卑弥弓呼
概略
邪馬台国の女王・卑弥呼の推戴で一時の安定を得た倭國だったが、
卑弥弓呼ひめくこを王に戴く 狗奴くぬ国の強大化により、倭國は再び戦争状態になる。
この争乱は卑弥呼の死後も続き、壱与いよの 王への推戴まで続く事となった。
推移

≪女王・卑弥呼≫
 三国志(魏志『倭人伝』)には、三世紀頃、倭の三十ヶ国の国々が魏に使者と通訳を送っていた事を記し、
 また倭の国々の位置や風俗、物産について述べた後、邪馬台国について以下の様に記している。

 「その國、もとまた、男子をもって王となす。
 とどまるところ七、八十年。
 倭國乱れ、相攻伐して年をへたり、すなわち共に一女子を立てて王となす。
 名を卑弥呼という。鬼道を事とし、よく衆を惑わす。
 年すでに長大なるも、夫婦なし。
 男弟あり、たすけて国を治む。王となりて以来、
 見ることある者少なく、婢千人をもって自ら侍せしむ。
 ただ、男子一人ありて、飲食を給し、辞を伝え、居処に出入す」

 卑弥呼は倭國大乱の時、十代前半の身で小国家郡に推戴された。
 彼女は、小国家郡の中心的存在であった邪馬台國の王となり、
 約30カ国の国々を、鬼道(シャーマニズム)により統治を行った。

≪狗奴国との戦争≫
 卑弥呼を戴いて大乱を収束させたのは、理由があった。
 邪馬台国の南に位置する 卑弥弓呼ひめくこを王に戴いていた、 狗奴くぬ国の強大化を意識しての事だった。
 239年、卑弥呼は使者・難升米なしめを 魏(明帝<曹叡>在位時)に遣わして初めて朝貢し、「親魏倭王」の称号を得た。

 この後、邪馬台国を中心とする小国家郡と狗奴国は戦争状態となり、247年、卑弥呼は魏に援軍を求めた。
 魏は黄幢を与え、両国を停戦させるべく檄を作ったが、
 魏の使者が倭に到着した時には既に卑弥呼は死去した後だった。
 卑弥呼には奴婢百余人が殉死し、大きな塚に葬られたと云う。

 卑弥呼の死後、邪馬台國では男王を推戴したが、 再び千余人が戦死する大乱が勃発し、
 卑弥呼の宗族である13歳の 壱与いよを王に戴く事になった。
 ここで漸く乱は収束され、それを見届けた魏の使者は檄を壱与に与えて帰国した。

≪その後の倭國と支那大陸≫
 この後、266年に、壱与は当時の中華王朝・晋に朝貢していたと想定される。
 しかし、これを最後に中華王朝の史書からは倭國に関する記事が消える。
 五胡十六国の相争う戦乱と、相次ぐ国の興亡により、歴史の編纂どころでは無くなったからである。
 邪馬台国、狗奴国、そして倭國はその後、どうなったのだろうか...。

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