星川皇子の乱(ほしかわのみこのらん)<479(雄略天皇23)年>
朝廷軍[総大将:大伴室屋][兵:不明]
大伴室屋、東漢掬
吉備軍[総大将:吉備稚媛、星川皇子][兵:不明]
吉備稚媛、星川皇子、兄君、城丘前来目、河内三野県主小根
≪援軍≫
吉備上道臣田狭
概略
雄略天皇妃の吉備稚媛きびのわかひめが、 子・星川皇子を皇位に就けようとして起こした叛乱。
白髪皇子の派遣した 大伴室屋おおとものむろや らによって鎮圧された。
推移

≪吉備氏≫
 後に備前・備中・備後に分割されるのが、吉備と呼ばれた地である。
 5世紀、吉備地方に勢力を持つ豪族・吉備氏は、今に残る大規模な古墳群から、
 中央政権に比肩する程の力があったと考えられている。

≪吉備下道臣前津屋の乱≫
 吉備下道臣前津屋きびのしもつみちのおみさきつやは、中央から派遣された 吉備弓削部虚空きびのゆげべのおおぞら を自分の周囲に留めさせ、
 何ヶ月も都に帰る事を許さなかった。
 しかし、雄略天皇の派遣した身毛君大夫むげのきみますらおの要請により、 止む無く帰朝を許した。

 帰朝した虚空は、雄略天皇に前津屋の近況を報告した。
 それによると、前津屋は、 大女おおめのこを吉備方に、 小女おとめを天皇方に見立てて争わせ、
 小女が大女に勝つと太刀を抜いて殺してしまった。
 又、鈴や金の蹴爪を付けた大きい雄鶏を吉備方に、毛を抜いて翼を毟った小さい雄鶏を天皇方として争わせ、
 小さい雄鶏が大きい雄鶏に勝つと、同じ様に太刀を抜いて殺してしまった。

 雄略天皇はこの報告を聞いて、激怒した。
 物部氏の兵士30人を派遣して、前津屋とその一族70人を殺させたと云う。

≪吉備上道臣田狭の受難≫
 吉備下道臣前津屋が誅されたのと同じ年、 吉備上道臣田狭きびのかみつみちのおみたさ は妻・吉備稚媛きびのわかひめの事を、
 天下に比類無き美人だと、周囲に度々自慢していた。
 雄略天皇はこの話を聞いて、稚媛を自分の後宮に入れようと画策した。

 463(雄略天皇7)年、唐突に吉備上道臣田狭は任那へ国司として派遣される。
 任那に赴いた田狭を待っていたのは、 妻・稚媛が雄略天皇に略奪されたとの報だった。
 田狭は新羅と同盟して天皇を討伐する事を企図するが、
 日本と不仲だった当時の新羅には入国する事も出来なかった。

 田狭の動きを知ってか知らずか、天皇は吉備弟君と 吉備海部直赤尾きびのあまのあたいあかお
 西漢才伎歓因知利こうちのあやのてひとかんいんちりの3人に、新羅討伐を命じる。
 吉備弟君は、田狭の次子だった。
 新羅討伐の為に百済へと赴いた弟君に田狭は使いを送り、叛乱の意思を告げる。
 これに賛意を示した弟君は、田狭と共に新羅・百済と同盟し、天皇討伐計画を練り始める事になった。
 しかし、この事態を見逃せなかった弟君の 妻・樟媛くすひめは、 夫を殺して計画の妨害を図った。
 この為、田狭の計画は頓挫してしまう。

 こうした状況下で、吉備稚媛は、雄略天皇との間に 磐城いわき皇子と星川皇子を儲けた。

≪星川皇子の乱≫
 478(雄略天皇22)年、 葛城韓媛からひめの子・ 白髪しらか皇子が立太子する。
 そして、479(雄略天皇23)年8月、雄略天皇が崩御。
 雄略天皇は死の間際、自分の死後に星川皇子が謀叛を起こすと予測し、
 密かに大伴室屋おおとものむろや東漢掬やまとのあやのつかを呼び、 白髪皇子を助けるよう強く命じた。

 雄略天皇の崩御を知った吉備稚媛は直ぐ様行動に移り、磐城皇子と星川皇子に謀反を勧める。
 この時、兄の磐城皇子は「異母弟とは言え、皇太子である白髪皇子に欺いて良いはずが無い」と諌めるが、
 弟の星川皇子は母の意に従い、叛乱の決行を決意する。

 星川皇子の下には、吉備 兄君えきみ城丘前来目しろおかさきのくめ河内三野県主小根こうちのみののあがたぬしおねらが馳せ参じ、
 迅速に大蔵官おおくらのつかさを占拠、 外門を閉じて攻撃に備えた。

 これを知った白髪皇子方の大伴室屋、東漢掬らが駆け付けて鎮圧にあたる。
 室屋は掬に命じて大蔵官を攻囲させ、逃走経路を遮断してから火を放たせた。
 掬の放った火は大蔵官を焼き、そして星川皇子らを容赦無く焼き尽くして行った。
 この時、無事に脱出出来た小根は、室屋への助命の執り成しを 草香部吉士漢彦くさかべのきしあやひこに頼んで助命された。

 この叛乱に呼応し、吉備上道臣田狭は軍船40艘を率いて進軍するが、
 叛乱が既に鎮圧された事を知り、撤退した。
 白髪皇子はこれを責め、田狭の所有していた山部の民を没収したと云う。

 妻子を失った田狭のその後は不明である。

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