上毛野の乱(かみつけぬのらん)<534(安閑天皇1)年>
大和朝廷[総大将:?][兵:不明]
笠原直使主
上毛野氏[総大将:上毛野君小熊][兵:不明]
上毛野君小熊、笠原小杵
概略
武蔵国造の座を巡る笠原氏の 笠原直使主かさはらのあたいおみと、同族の 笠原小杵かさはらのおぎの内訌に、
大和朝廷と上毛野氏が介入し、使主・大和と小杵・上毛野氏の争いへと発展した。
推移

≪笠原氏の内訌≫
 534(安閑元年1)年、武蔵の笠原直使主かさはらのあたいおみと、同族の笠原小杵かさはらのおぎとが武蔵国造の座を巡って対立する。
 この内訌に北関東の有力者・上毛野君小熊かみつけぬのきみおぐまが関わる事で、事態は大きくなる。

≪乱の経過≫
 小杵は小熊に援助を要請、使主を殺害しようと謀ったが、
 使主はこれを察知、大和国勾金橋宮に逃亡し、大和朝廷に訴え出た。
 大和は使主の訴えを容れ、使主を武蔵国造に任命した上で小杵を誅し、 小熊を処罰した。

 乱の後、使主は大和に横渟よこぬ橘花たちばな多氷たひ倉[木巣]くらす の四ヶ所を屯倉として奉った。
 更に、上毛野国に緑野屯倉が設置された。

≪乱の背景≫
 この四ヶ所の屯倉は、横渟が横野(多摩郡横山地方、又は横見郡)、 橘花は橘樹たちばな郡、
 多氷は多末の誤記で多摩郡、倉[木巣]は倉樹の誤記で 久良岐くらき郡であろうとされている。

 何れも南武蔵の多摩川流域、鶴見川流域にあたり、
 小杵が滅ぼされ、その領地に屯倉が設定されたとすれば、この地域が小杵の本拠だったと考えられる。
 北武蔵には後に埼玉郡笠原郷が見えるが、この地域が使主の本拠だったと考えられる。
 因みに埼玉古墳群は、笠原氏のものとされている。

 これらを見ると、使主と小杵の同族間による争いの結果、北武蔵の使主勢力が大和と結び、
 南武蔵の小杵勢力が上毛野勢力と結んで相争ったと云う構図が見える。
 五世紀中頃から後半にかけて、 毛野けぬ・ 武蔵では上毛野氏を中心とした政治圏が形成されており、
 ここに属する豪族達は大和の支配下にあると同時に、上毛野氏の支配も受けると云う状態にあった。
 この二重支配の構造が、武蔵国造の内訌を契機にして、
 西国の大和、東国の上毛野との対立を表面化させ、衝突に到ったのではないかと推測される。

 又、534年は朝鮮半島で新羅が任那の一つである金官国を併合した年でもある。
 大和朝廷の朝鮮出兵に深く関わっていた上毛野氏は、
 任那金官国の失陥と云う大和の失態に怒りを覚え、大和に抵抗の意思を見せたとも云われる。

≪乱後≫
 関東での抵抗者だった上毛野氏を除いた大和による関東支配は進展した。
 後の武蔵国府は先の四屯倉のほぼ中央に設置される事になる。

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