磐井の乱(いわいのらん) <527(継体天皇21)年〜528(継体天皇22)年11月11日> |
朝廷軍[総大将:物部麁鹿火][兵:不明] |
物部麁鹿火、(大伴金村) |
筑紫軍[総大将:筑紫国造磐井][兵:不明] |
筑紫国造磐井、筑紫君葛子 |
概略 |
大和朝廷が新羅へ派遣した近江毛野臣以下兵6万を、九州で
乱は九州全土を巻き込むものとなったが、朝廷から派遣された |
推移 |
≪磐井の妨害≫ 任那は倭國にとって重要な拠点であった為、これを見逃す訳には行かない。 大和では6月3日、 ≪乱の背景≫ 北九州には那の大津(博多付近)と云う大和朝廷の直轄地があり、ここが朝鮮半島への前線基地となっていた。 その為、大和朝廷による半島出兵の度に過酷な負担を強いられており、 これが磐井や北九州の民衆の大きな不満となっていた。 又、磐井には朝鮮半島南部の利権を元に、中央権力に対する自立心があったとも 云われている。 他に、朝鮮半島の情勢に深く関わっていた磐井としては、 百済への任那四県割譲など、 大和の対朝鮮外交の失策に怒りを覚えていたからとも云われる。 ともかく、磐井が大和朝廷に対して不満を持っている事を知った新羅は、 磐井に賄賂を送って大和の軍勢を妨害するよう要請した。 ≪磐井の乱、勃発≫ そして527(継体天皇21)年の6月、これらの諸事情を背景に、磐井は兵を挙げる事になる。 磐井は瞬く間に火の国(肥前・肥後)、豊の国(豊前・豊後)を制圧し、 更に倭國と朝鮮半島諸国(高句麗・新羅・百済・任那)間の海路を封鎖した。 そうしてから任那への渡海任務を負った近江毛野臣を出迎えた磐井は、毛野に対し、 「貴殿と私とは それが何故、朝廷の使いとなって私を従わせようとするのか。」と言ってその行く手を塞いだ。 ≪平定軍の派遣≫ この叛乱に対し、継体天皇は平定軍の派遣について、 重臣たちと協議した結果、全会一致で物部麁鹿火が推挙された。 同年8月1日、継体天皇は詔を発し、物部麁鹿火を将軍として任命、軍を発した。 ≪御井の合戦≫ 九州に到着した麁鹿火率いる平定軍は、一年余に亘って磐井の軍との戦いを繰り広げた。 そして翌年の528(継体天皇22)年11月11日、漸く御井(福岡県小郡市三井郡)の地で決戦となった。 激しい戦闘の末、麁鹿火は磐井を破り、滅ぼした。 ≪乱後≫ 同年12月、磐井の子・筑紫君葛子は父の連座から逃れる為、 糟屋(福岡県糟屋郡)の屯倉を献上し、死罪を免れた。 そして翌年3月、大和朝廷は再び近江毛野臣を任那にある安羅へ派遣し、新羅との領土交渉を行わせた。 しかし交渉は思う様には進まず、朝廷内で毛野を讒言する者も居て、継体天皇は彼に帰朝を命じた。 その帰国の途次、毛野は対馬で病死する。 この病死については、毛野を良く思わない者による毒殺とも云われる。 この叛乱の鎮圧の結果、大和朝廷による九州の支配は強化された。 そして、豪族の連合の上に成り立ち、不安定な状態とも云える朝廷体制の強化に繋がった。 しかし、逆に任那での倭國の影響力は急速に低下した。 因みに、磐井の名は『筑後国風土記』逸文によれば、筑紫君磐井と呼ばれ、 磐井は筑紫御井の合戦の後、豊前 『古事記』では、平定軍は物部大連麁鹿火と共に、大伴大連金村が率いたとある。 福岡県八女市にある岩戸山古墳は、磐井が生前から築造していた墓とされている。 |
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