任那の衰亡(みまなのすいぼう)<509〜562年>
概略
倭國の朝鮮半島での拠点だった任那みまなは、 509年の大伴金村の任那四県割譲を皮切りに衰退し、
562年、新羅の侵略によって滅亡する。
推移

≪任那日本府≫
 『日本書紀』が引用する或る書によると、 任那は加羅から国・ 安羅あら国・ 斯二峡しにき国・ 多羅たら国・
 卒羅そらま国・ 古嵯こさ国・ 子他した国・ 散半下さんげはん国・ 乞[冫食]こちさん国・ にむら国に分かれていたと云う。

 5、6世紀、日本がこの任那に設置していた出先機関が「任那日本府」である。
 任那日本府は任那諸国のみではなく、百濟や新羅をも支配していが、
 新羅に併合されて滅亡したとされている。
 しかし、これは『日本書紀』にのみ載る記事である。

 この任那日本府は、近代日本の「朝鮮総督府」と近似したものとして理解され、近代の日本の歴史学では、
 大和朝廷の植民地である任那を支配する為に設置されたものと、考えられて来た。
 しかし、他の朝鮮側史料にはこの語は見られない為、現在では余り信用されていない。

 ただ日本の歴史学界では、日本が当時、朝鮮半島に政治的機関・機構を設置していた事は否定していても、
 駐在員を置き、彼らが任那諸国や百濟、新羅と様々な外交折衝をしていたものとしている。
 勿論、この当時に「日本」と云う国号は未だ成立しておらず、
 『日本書紀』に、「諸倭臣」とあるのが、そうであるとしている。

≪任那の衰退≫
 6世紀になって、朝鮮半島に於ける任那の情勢が切迫して来た。
 509年、百濟が任那四県を割譲するよう倭國に要求すると、これを容れた大伴金村は四県を割譲した。
 この為、任那諸国では倭國に対する不信感は急激に高まった。

 514年、新羅に法興ほうこう王が即位、 この王の下に新羅は国力を充実させ、任那へ侵略を開始した。
 522年には加羅国の王が、新羅の王家と婚姻を結んでいるが、 後に滅ぼされてしまったらしい。

 この情勢の中、大和は朝鮮半島へ 近江毛野臣おうみのけぬのおみ に軍6万を付けて派遣しようとするが、磐井により妨害される。
 磐井を除いた後、漸く渡海するが、近江毛野臣の奔走は実を結ばず、任那の状況は一向に好転しなかった。

 538年、百濟は高句麗に圧迫され、 百濟の聖明せいめい王は 熊津ゆうしんから 扶余ふよに遷都、
 郡令・城主と云う武官を派遣して、任那地域の属領化を進めた。

 541年から544年にかけて、加羅国の復興に関する会議が百濟王の主権で開かれたが、
 この頃には既に任那の外交権は百濟の手にあったと推測されている。
 この会議では倭國側の要求は殆ど容れられず、為に中には新羅と結ぼうとした倭臣が居た程だったと云う。

 548年、高句麗が百濟に侵攻した。
 高句麗に対するだけの国力を蓄えていなかった新羅は、百濟に援軍を送って高句麗を撃退する。
 高句麗の領土の一部を百済と分けて占領したが、後になって新羅が百濟から総ての占領地を奪った。
 高句麗を退け、脅威が薄くなってからは、新羅による任那併合の動きは活発化する。
 衰退していた百濟は最早独力でこれに抵抗する事が出来ず、
 何度も倭に援軍を要請し、その度に倭は朝鮮半島へと出兵する。

 554年には兵千人、馬百疋を乗せた兵船40隻が渡海、百濟と共に新羅と戦ったが敗退した。
 この時の戦いで聖明王は戦死する。

 556年にも阿部臣あべのおみ佐伯連さえきのむらじ播磨直はりまのあたいらが 千の兵を率いて渡海するものの、
 既に定まった趨勢に抗う事は出来ず、最早どうする事も出来なかった。

 562年、任那は新羅によって遂に滅亡する。
 『日本書紀』欽明天皇二十三年条「春三月、新羅、任那 官家みやけを打ち滅ぼす」

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