第四次蝦夷平定戦(だいしじえみしへいていせん) <794(延暦13)年>
朝廷軍[総大将:大伴弟麻呂][兵:10万]
大伴弟麻呂、坂上田村麻呂、百濟俊哲
蝦夷[総大将:不明][兵:不明]
不明
概略
蝦夷制圧の為、朝廷が蝦夷の支配地域に送り込んだ第四次征東軍の戦い。
伊治城を奪還したのみに終わり、決定的な勝利とは云えないものの、
蝦夷の経済基盤に大きな損害を与えた。
推移

≪桓武朝の蝦夷対策≫
 774((宝亀5)年の宇漢迷公宇屈波宇の桃生城攻撃に始まった蝦夷の叛乱以後、
 朝廷は三度の蝦夷平定の軍を派遣するも、果々しい戦果を挙げるには到らなかった。
 蝦夷の叛乱平定を重要課題に挙げる桓武天皇は、再び征東軍派遣の準備に入る。

 第三次蝦夷平定戦(大使:紀古佐美)の敗因の一つとして、
 打ち続く征東軍の派遣に、武具・兵糧の負担を課された坂東諸国の民衆が疲弊し切って居る事だった。
 桓武天皇は、兵力の動因を貧民から豪族の持つ兵力に切り替え、
 征東軍首脳部には朝廷の方針に従わない坂東出身者から、天皇に密着した人物を採用する方針を立てた。

≪第四次蝦夷平定軍、派遣≫
 794(延暦13)年、征夷大将軍に大伴 弟麻呂おとまろを任命した。
 征夷大将軍とは、蝦夷征伐の為に設けられた臨時の将軍で、この弟麻呂が初の征夷大将軍だった。
 副使には、坂上田村麻呂と百濟俊哲が任命された。
 弟麻呂率いる10万の軍勢は、造営途上にある平安京を後にして、進発した。

≪戦果≫
 この第四次蝦夷平定軍と蝦夷との間に行われた具体的な戦況は分からないが、
 蝦夷側の手に渡っていた伊治これはる城を 奪還したのみで終わる。
 しかし、斬首547人、捕虜50人、獲馬85頭、焼き払った村75と云う戦果が出ている。
 今回の戦いでは決定的な勝利とは成り得なかったものの、
 前回の巣伏の合戦に比べて大きな勝利であり、蝦夷側は大きな損害を蒙り、
 その損害や国土の疲弊の回復は難しかった。

 蝦夷平定の総仕上げは、坂上田村麻呂に引き継がれる。

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