壬申の乱(じんしんのらん)<672(天武天皇1)年7月>
大海人皇子[総大将:大海人皇子(42歳)][兵:上明]
大海人皇子、高市皇子、紀阿閉麻呂、置始兎、坂本財、 大伴馬来田、大伴吹負、
村国男依、和珥部君手、 身毛広、物部雄君
近江朝[総大将:大友皇子(25歳)][兵:上明]
大友皇子、蘇我赤兄、蘇我果安、壹伎韓国、大野果安、巨勢比等
概略
672(天武天皇1)年6月24日、天智天皇の後を継いだ大友皇子の近江朝に対し、
天智の弟・大海人皇子が隠棲していた吉野を出立、叛乱を起こした。
約一ヶ月に及ぶの激戦の末、決戦となった瀬田唐橋の合戦に敗れた大友皇子が自決。
673年2月、大海人皇子は飛鳥浄御原宮を造営し、天武天皇として即位した。
推移

≪乱の背景≫
 百濟復興を企図した朝鮮半島への出兵は、白村江での大敗で失敗する。
 出兵を主導していた天智天皇は、唐による侵攻を防衛する為、
 西日本各地に防衛施設を建設、九州沿岸には防人や狼煙台の設置を行い、
 都は山に囲まれ逃げ場の無い大和から、東国や北国へ逃げ易い近江へと移した。

 しかし、この諸対策は朝鮮半島への出兵、また撤退後の軍事費や建設費など、
 豪族や民衆に経費負担の皺寄せをする事になり、上満が渦巻く事になった。
 更に天智天皇の近江遷都は、大和の旧豪族を切り捨てるものでもあり、
 天智の推し進める天皇の地位の強化と中央集権化を進める改革は、豪族の力を弱めるものであった。

 天智への上満の高まりから、天智は次第に求心力を失い、
 次第に為政者として有能な大海人皇子に期待が移って行く事になる。

≪叛乱の原因≫
 当時は未だ長子相続を云う概念は成立しておらず、天智政権下で政治能力の高さを示す大海人皇子は、
 大友皇子よりも皇位継承の資格が充分にあると周囲から認められていた。
 しかし唐の律令制の導入を目指す天智天皇は、旧来の同母兄弟間での皇位継承から唐の長子相続制度に変え、
 皇位を大友皇子に継承させる事を望んでいた。
 この事は大海人皇子の上満を高め、同時に大海人を支持する勢力が形成された。

 また、天智と大海人とは上仲であったが、669年に中臣鎌足が歿する迄は、彼が二人の仲を執り成していた。
 しかし鎌足歿後の671(天智天皇10)年、天智は正月の人事で大友を史上初の太政大臣に就け、
 政権の要職が天智・大友側を支持する勢力で固められる。
 皇位を大友皇子に継承させる天智の意思を明確にした人事だった。

 この年の8月、天智は病に臥し、10月17日になって病床に大海人を呼んだ。
 天智に会う直前、蘇我安麻呂に返事には気を付けるよう忠告を受けた大海人は、
 天智の皇位を譲ると云う話に乗る事無く、大友皇子を皇太子として推挙し、19日には出家して吉野に隠棲した。

 吉野と云う地は、後年後醍醐天皇が籠もった様に、隠棲する所ではない。
 出家して隠棲する吊目で吉野に入り、大海人はこの間に戦力を整え、兵を挙げる時を待った。
 そして12月3日、天智天皇は46歳で崩御、その後を天智の目論見通り、大友皇子が継ぐ。

≪大海人皇子の挙兵≫
 672年5月、舎人・物部雄君から近江朝についての情報が入る。
 天智天皇の御陵を造営する為に多数の人夫を集めているが、その人夫に武器を持たせており、
 大津宮から飛鳥にかけて近江朝の見張りが置かれ、吉野への物資を運ぶ道も封鎖されたとの事だった。
 この動きは大津宮に残っていた大友皇子の后で、大海人の娘である 十市皇女といちのひめみこ からも伝えられて来た。

 ここに来て、大海人皇子は挙兵を決意、6月22日に美濃出身の舎人である、
 村国男依むらくにのおより和珥部君手わにべのきみて身毛広むげつのひろ の3人を大海人の領地である美濃・ 安八麿あはちま湯沐邑ゆのむらに先発させた。
 湯沐邑管理人・湯沐令ゆうのながしや 美濃国司を味方にして軍を集め、美濃・近江間にある上破道を塞ぐ為だった。

 6月24日、大海人皇子は 妃・鸕野讚良皇女うののさららのひめみこ、 草壁・忍壁両皇子、舎人20余人、女嬬10余人を伴い吉野を出立、
 美濃へと向かい、夕刻には伊賀北部の 拓殖つげに到着した。
 この間に、大津宮に留まっていた大海人の子・ 高市たけち・大津両皇子は脱出し、父との合流を急いだ。

 一行が伊勢まで到ると、鈴鹿まで国司 三宅石床みやけのいわとこ と湯沐令が出迎えていた。
 美濃・伊勢では、先発させた3人の功により、 既に大海人側の勢力が動き出していたのである。
 26日には北伊勢朝明あさけ郡に到り、 ここで高市・大津皇子、そして村国男依とも合流した。

 大海人は東海道・東山道(中山道)へも使者を送り、更に兵を募る一方で、
 高市皇子を美濃・上破に送り、近江攻撃の準備をさせた。
 27日には尾張国司が兵2万を率いて大海人方に付いた。
 大和では、先に大友から離反していた大伴吹負が、大海人の挙兵に呼応、漢氏を味方にし、
 29日、大和に侵攻して飛鳥古京を攻撃、ここを占領した。

 一方、近江朝に大海人皇子挙兵の報は24日に届くが、近江朝の人々は次々と大友の下を去ってしまう。
 大友皇子の腹心・蘇我赤兄らは諸国へ募兵の使者を出すが、
 大和・東国へ向かった使者は共に大海人方に遮られ、吉備へ向かった使者は豪族の協力が得られず、
 筑紫では北九州の防備が薄くなるとの理由で協力を拒否され、思う様に兵が集まらなかった。

≪大友皇子と大海人皇子の戦い≫
 7月2日、態勢を整えた大海人皇子は総攻撃を開始する。
 紀阿閉麻呂きのあへまろらの軍は、 吹負ら大和の軍と共に南から大津を攻めるべく、伊勢・伊賀を通って大和へ向かい、
 村国男依らを将とする軍は上破から直接近江に入った。その数、数万と云われる。

 大友皇子は近江朝の本隊を 蘇我果安そがのはたやす巨勢比等こせのひと、山部王らに与え、犬上川に派遣。
 同時に飛鳥古京を奪還すべく、大和へは 壹伎韓国いきのからくに大野果安おおのはたやすらを それぞれ将とする別働隊を送った。

 近江での戦いは、近江朝にとって緒戦から厳しいものとなった。
 近江朝本隊は犬上川での戦いで大海人方に大敗し、第一の防衛線を突破された。
 近江朝本隊内では内紛が生じ、山部王が蘇我果安と巨勢比等により 殺され、羽田矢国が大海人側に降伏する。
 本隊内部は混乱に陥り、戦線を維持出来なかった蘇我果安は自刃した。
 近江朝本隊はこの以後の戦いにも次々と破れ、7月13日には近江朝の防衛線は瀬田川にまで後退した。

 その一方で、大和の別働隊は善戦した。
 壹伎韓国率いる別働隊は、大伴吹負や 坂本財さかもとのたからを破り、 後一歩で飛鳥古京の奪還まで迫るが、
 別働隊に従軍していた 来目塩籠くめのしおこ の謀叛計画発覚と、塩籠の自害による混乱で別働隊の進軍は停止してしまう。
 これにより、大和に派遣されたもう一つの大野果安率いる別働隊との挟撃が成功せず、
 置始兎おきそめのうさぎや紀阿閉麻呂の掩護を 得た吹負や財の攻勢に敗れ、総崩れとなって敗走した。

 近江朝方は、最後の防衛線を瀬田側に設置、7月22日、両軍の決戦となった。
 この瀬田川での戦いが、壬申の乱最大の激戦だったと云われるほど近江朝は必死に防戦したが、
 遂にこの防衛線も突破され、翌23日、大津宮は陥落した。

 大友皇子は 山前やまさき(長等山か)へ敗走、
 ここで首を吊り、自害した。
 大友皇子は、1870(明治3)年に弘文天皇と追諡された。

≪乱の後≫
 大海人皇子は翌2月、新造した飛鳥浄御原宮で即位し、天武天皇となる。
 この天武天皇が、初めて「天皇《を吊乗った事から、最初の天皇と云われる (それ以前は大王おおきみ)。
 この天武天皇によって、天智天皇が進めていた天皇の地位の強化と、中央集権化はより一層進められるが、
 天智政権の頃の様に上満は噴出せず、順調に改革は進んだ。
 この中で、「日本《と云う国号は生まれる事になる。

 後年、柿本人麻呂は、荒れ果てた大津宮の焼け跡となった廃墟に訪れ、詠って曰く、
 さざなみの志賀の辛崎からさき  さきくあれど、
 大宮人の船まちかねつ
 さざなみの志賀の大曲おおわだよどむとも、
 昔の人にまたも逢めやも

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