瀬田唐橋の合戦(せたからはしのかっせん)<672(天武1)年7月22日>
大海人皇子[総大将:高市皇子(19歳)][兵:不明]
高市皇子、村国男依、大分稚臣
近江朝[総大将:大友皇子(25歳)][兵:不明]
大友皇子、智尊、蘇我赤兄
概略
壬申の乱に於ける合戦。
瀬田唐橋で最後の防衛線を敷いた近江朝軍と、破竹の勢いで進む大海人皇子の軍とが戦った合戦。
緒戦は近江朝優勢であったが、大海人側の 大分稚臣おおきだのわかおみ の活躍により、近江朝は敗退する。
辛うじて逃げ出した大友皇子は 山前やまさきに逃げ込み、同地で自害した。
推移

≪近江方面軍≫
 672(天武1)年7月2日、大海人皇子は、不破で軍を二つに分けた。
 一隊は東海道を戻り、伊勢を越えて大和に向かい、もう一隊は東山道を通って近江へ向かった。
 近江方面軍は高市皇子が指揮を執り、村国男依が将軍に就いた。
 この軍では漢の高祖劉邦に倣って、衣服や槍の先に赤い布を付け、旗にも赤を用いたと云う。

 一方、近江朝は、蘇我果安、巨勢比等、山部王に本隊を預け、不破を目指して犬上川に布陣した。
 しかし、この中で内紛が起こり、果安と比等により山部王は殺害され、果安は自害、軍は分裂してしまう。

≪近江戦線≫
 7月2日、玉倉部たまくらべ(不破郡関ヶ原町玉) の合戦
 近江朝と大海人皇子軍との最初の合戦。
 初戦の勝利は、大海人皇子方が得た。

 同月5日、倉歴くらふの合戦
 夜戦で敵味方の区別がつかない為、近江朝の田邊小隅は「金」と云う合言葉を使って 区別したが、
 大海人皇子軍は敵味方の区別が付かずに混乱し、敗退。
 しかし、大海人皇子方の援軍・多品治の掩護により、近江朝軍は敗退した。

 同月7日、息長横河おきながのよこかわ (米原市醒ヶ井)の合戦
 同月9日、鳥籠山とこのやまの合戦
 同月13日、安河やすのかわ (野洲川)の合戦
 同月17日、栗太くるもと(栗太郡)の合戦
 何れも、高市皇子・村国男依の率いる軍が、近江朝の軍を破った。

 同月22日、三尾城みおのき (高島市)の合戦
 次々と防衛線を破られた近江朝方の軍勢は三尾城を拠点に戦うが、 ここでも敗退した。
 近江朝は、瀬田唐橋に最後の防衛線を敷く事になる。

≪瀬田唐橋の合戦≫
 7月22日、高市皇子・村国男依率いる近江方面軍は、近江朝最後の防衛線である瀬田唐橋の東側に着陣。
 橋の西岸には、大友皇子率いる近江朝本隊と、それを囲む近江朝群臣の軍勢が既に布陣していた。
 両軍の無数の旗が翻り、太鼓やかねの音は 数十里先まで響いたと云う。

 大海人皇子軍はここに最後の総攻撃を、近江朝軍は最後の防衛戦を戦う。
 弓を構えた兵達の放つ矢は、乱れ落ちて雨の様に降った。

 近江朝の智尊は精兵を率い、先駆けとして必死の防衛を試みた。
 智尊は唐橋の中程の板を外して長板で隠し、渡って来る敵を落とせるよう仕掛けた。
 大海人皇子軍は、その三丈程の隙間の為に進軍を躊躇い、苦戦していたが、そこに 大分稚臣おおきだのわかおみが進み出る。

 大分稚臣は持っていた矛を捨て、かぶとを 重ね合わせて刀を抜き、
 板に付いた縄を引く暇も与えずに長板の上を駆け抜け、 縄を切って近江朝軍の弓矢の中に斬り込んだ。
 近江朝軍は稚臣の進撃に混乱し、総崩れを起こす。そして我先に四散した。
 この味方の総崩れを食い止める為に智尊は自ら刀を抜いて押し留めようとするが、無駄だった。

 近江朝を瀬田唐橋に破った村国男依らは、膳所付近の 粟津岡あわずがおか で軍を纏め、軍団を立て直した。

 大友皇子は辛うじて逃げ出す事は出来たものの、
 護衛の将を失い、左右大臣や群臣までもが逃げ出してしまった。
 大友皇子は最後まで従って来た物部麻呂や僅かな舎人と共に、大津宮の方角を臨みつつ、自害した。

 瀬田唐橋の合戦から三日後の26日、大友皇子の頸を持って、大海人皇子の軍は、不破にある本営に凱旋した。

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