衣摺の合戦(きずりのかっせん)<587(用明天皇2)年7月>
蘇我軍[総大将:蘇我馬子(37歳)][兵:不明]
蘇我馬子、厩戸豊聡耳皇子、迹見赤梼
物部軍[総大将:物部守屋][兵:不明]
物部守屋
概略
大和朝廷内の蘇我氏と物部氏の権力争いが、武力闘争となった戦い。
蘇我馬子に追い詰められた物部守屋は衣摺で最後の抵抗を行うが敗れ、物部氏は滅亡した。
推移

≪蘇我氏と物部氏≫
 6世紀後半、仏教受容を巡り、朝廷内で二大豪族となっていた蘇我氏と物部氏の対立が深刻になって来た。
 崇仏派蘇我氏は仏教受容に積極的であり、
 排仏派物部氏は百八万やおよろずの神の怒りを 招くものとして、仏教受容に強く反対した。

 この対立は、仏教受容によるものともされるが、
 外交に明るい蘇我氏、従来部民制を基盤とする伴造層の物部氏、
 両者の目指す国家体制の違いや、豪族間の権力闘争が背景にあった。

 587(用明天皇2)年4月2日、用明天皇は疱瘡の病に倒れ、 仏教への帰依を願った。
 蘇我馬子そがのうまこはこれに 賛成するが、物部守屋もののべのもりや は反対の立場を取り、両者は対立。
 同年同月9日に用明天皇が崩御すると、物部守屋は身の危険を感じて本拠である河内に戻り、軍備を整え始めた。

≪武力闘争の開始≫
 物部氏は軍事を司る氏族であり、 八十物部やそもののべ と云われる様に多くの部民を配下に置いてはいたが、
 多くは遠地に散らばっていた。その為、守屋は殆ど河内の物部一族だけで戦う必要があった。

 蘇我馬子はそんな状況を好機と見て、当時の朝廷の有力豪族を集めて豪族連合軍を作り、
 一気に物部守屋を討ち滅ぼそうと考え、馬子も軍備を整え始めた。

 同年7月、連合軍は蘇我氏を中心にして、
 諸皇子や紀氏、巨勢こせ氏、 かしわで氏、 葛城氏からなる主力の第一軍と、
 大伴氏、阿部氏、平群へぐり氏、坂本氏、 春日氏からなる第二軍とに分かれて、河内へ進撃した。

≪衣摺の合戦≫
 第一軍は、逢坂おうさかを越えて 国分こくぶから船橋の方へ出るか、 穴虫峠を越えて古市へ出るかして、
 衛香えか 川の河原にあった物部方の防衛線を突破した。
 その間に、第二軍は竜田道を通って志紀郡へ出て、 守屋の本宅がある渋川へ向かった。

 守屋は不意を突かれた為、渋川を放棄、北方の衣摺まで後退、ここで防戦した。
 軍事を司る物部氏だけあって、衣摺では沼地に囲まれた平地に稲束を積み上げて砦を築き、
 自らは榎の木に登って多数の敵を射竦めた。
 蘇我方は第二軍に主力の第一軍が加わっても攻めあぐねた。

 この時、蘇我方に加わっていた 厩戸豊聡耳皇子うまやどとよとみみのみこ (後の聖徳太子)は、白膠ぬるで の木に四天王の像を彫り、
 勝てたならば、四天王の為に寺と塔を建てると誓い、
 馬子も諸天と大神王の為に寺と塔を建てると誓ったと云う。
 法隆寺と四天王寺は、この時の誓約に従い戦後二人が建てたものと伝えられる。

 蘇我方は苦戦するものの、やがて乱戦の中で 迹見赤梼とみのいちい の放った矢が守屋を射落とし、
 転げ落ちた守屋を見た物部方は、総崩れとなって壊走した。

 物部氏の滅亡により、朝廷は蘇我氏が実権を握ると共に、
 以後は仏教が国家体制の基本思想となって行く。

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