乙巳の変(いつしのへん)<645(皇極天皇4=大化1)年6月12日> |
中大兄皇子[総大将:中大兄皇子(20歳)][兵:不明] |
中大兄皇子、中臣鎌足、蘇我倉山田石川麻呂、佐伯子麻呂、葛城稚犬養網田 |
蘇我本宗家[総大将:蘇我入鹿][兵:不明] |
蘇我入鹿、蘇我蝦夷、漢直 |
概略 |
蘇我入鹿を打倒して権力を握ろうとした中臣鎌足が、中大兄皇子を旗頭として、 入鹿を三韓の |
推移 |
≪中臣鎌足≫ 舒明4年(632)、僧 舒明12年には 彼らは帰国後直ぐに経書や仏典の講義を行い、又、唐土の実情を詳細を語った。 この講義の中で、目立った才能を見せた二人の人物が、蘇我入鹿と中臣鎌足だった。 権力を握る蘇我入鹿を打倒し、自らが権力を握る事を望んだ中臣鎌足は、 同じ南淵請安の下で学んでいた中大兄皇子と共謀して、蘇我氏転覆の謀議を巡らせた。 中大兄皇子は、入鹿と同族の 彼を味方に引き入れる事に成功する。 この他、 入鹿の権勢が飛鳥全域に及んでいた為、これ以上の協力者を引き込む事は危険だったのである。 ≪蘇我入鹿の警戒≫ この動きに蘇我入鹿も無策で居た訳では無い。 蝦夷と入鹿は、本拠・甘樫丘に防衛施設を持った屋敷を構え、 (蝦夷の屋敷を「上の 畝傍山東方に築いた屋敷には、周囲に堀と柵を巡らせ、東方[彳賓]従者と ≪暗殺決行≫ 645(皇極天皇4)年、三韓(高句麗・新羅・百済)の使いが来日し、 この儀式を名目に、蘇我入鹿を出席させる事が出来ると考えた中大兄と鎌足は、 この儀式の日を暗殺の決行日として定める。 同年6月12日、儀式には皇極天皇が大極殿に出御、古人大兄皇子が側に侍し、 入鹿も入朝する。 警戒心の強い入鹿は日夜剣を手放さなかったが、この日は大極殿に入るに当たって俳優に剣を預ける事になった。 儀式が始まると、中大兄は衛門府に命じて十二の宮門を総て閉じさせ、外部との連絡を断った。 入鹿が座に着いた後、蘇我倉山田石川麻呂が上表文を読み始める。 中大兄は長槍を、鎌足は弓矢を、 佐伯子麻呂と葛城稚犬養網田は、海犬養勝麻呂の運んだ剣を手に、大極殿内に潜んだ。 入鹿を斬る役を負っていた子麻呂と網田は、入鹿の威勢に恐怖し、中々襲撃しない。 襲撃が起きないまま、上表文は終わりに近付く。 石川麻呂は焦り、恐怖の余り汗に塗れた。声が乱れ、手が震える。 不審に思った入鹿が「何故震えるのか」と問うと、 石川麻呂は「天皇のお近くが畏れ多く、汗が出るのです」 と答えるのが精一杯だった。 この状況を見た中大兄は、自ら躍り出て入鹿の頭から肩にかけてを斬り付けた。 これに続いて子麻呂と網田も飛び出し、 驚いて座から立ち上がろうとする入鹿の片脚を斬った。 倒れ込んだ入鹿は、傷付き血を流す自らの体に動じず、 突然の出来事に驚くばかりの天皇の御座へ叩頭して言った。 「私に何の罪があると言うのでしょうか。お裁きください」 天皇は襲撃した中大兄に問う。 すると中大兄、「入鹿は皇族を滅ぼし、皇位を奪おうとしました」と言って取り合わない。 これを聞いた天皇は何を思ったか、入鹿を残して殿中へ退いた。 後に残された満身創痍の入鹿は、子麻呂と網田の手により斬り殺されてしまった。 大雨の降ったこの日、庭は水で溢れていたが、入鹿の亡骸は庭に投げ出され、 障子で覆いを掛けられただけだった。 入鹿が襲撃された時、古人大兄皇子は私宮へ逃げ帰り、 「 中大兄と鎌足らは直ちに法興寺に入って陣を敷き、蘇我蝦夷に対する姿勢を取った。 皇子、豪族の殆どは、中大兄らに味方し、従った。 蝦夷の元には、蘇我氏一族と 入鹿の死と共に中大兄方に付いた巨勢臣徳太の説得により、 戦わずして解散してしまう。 同月13日、蝦夷はかつて 屋敷に火を放って自害した。 ここに、蘇我本宗家は滅びる事となる。 この時、船史恵尺と云う者が、『国記』を火中から拾い出し、中大兄に献上したと云う。 同月14日、皇極天皇は軽皇子へ禅譲し、孝徳天皇が即位する。 中大兄は立太子し、阿部内麻呂を左大臣、石川麻呂を右大臣、 鎌足を ≪中大兄皇子の暗躍≫ この後、孝徳天皇は中大兄の暗躍により次々と重臣たちを奪われ、遂には蘇我倉山田石川麻呂も謀殺される。 孤立した孝徳天皇は中大兄に抗する事が出来なくなり、失意の内にやがて崩御する。 そして、中大兄が天智天皇として即位し、朝廷の実権を握る事になった。 ≪蘇我蝦夷、入鹿の名前≫ 入鹿襲撃の後、古人大兄皇子は「韓人、鞍作を殺しつ」と言ったが、 蘇我入鹿は本来、「鞍作」「林臣」「林太郎」「蘇我大郎」と呼ばれていた。 又、蝦夷は「毛人」「豊浦大臣」と呼ばれていたと云う。 |
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