斑鳩宮の合戦(いかるがのみやのかっせん)<634(皇極2)年11月1日>
蘇我軍[総大将:蘇我入鹿][兵:不明]
蘇我入鹿、巨勢臣徳太、土師裟婆連、軽皇子、狛大法師
山背軍[総大将:山背大兄王][兵:不明]
山背大兄王、三成、三輪文屋君、舎人田目連、菟田諸石、伊勢阿部堅経、弓削王
概略
蘇我入鹿が、皇位継承権を持つ山背大兄王を斑鳩宮に攻めた戦い。
山背大兄王は一度は生駒山に退避するが、何故か斑鳩宮に舞い戻り、一族揃って自害した。
推移

≪斑鳩宮攻防戦≫
 634(皇極2)年11月1日、蘇我入鹿は 巨勢臣徳太こせのおみとくたと、 土師裟婆連はじのさばのむらじらを派遣し、
 斑鳩宮(法隆寺)に居た山背大兄王を襲撃させた。
 この攻撃には皇極天皇の弟・ かる皇子も加わっていたと云う。

 急襲であったにも関わらず、山背大兄王方はよく防戦したらしい。
 やっこ三成みなしを中心として寄せ手の攻撃を防ぎ、 土師裟婆連が戦死する程であったと云う。
 だが、多勢に無勢、戦局は山背大兄王方に不利になり、馬の骨を残して、
 山背大兄王は舎人田目連とその娘、菟田諸石、伊勢阿部堅経らを連れ、 斑鳩宮を脱出した。

 生駒山に逃れた山背大兄王に、従臣の一人であった三輪文屋君みわのふんやのきみは、
 「深草まで逃れ、東国に行って兵を集め、乳部の民を中心にして軍を編成すれば、
 蘇我氏と戦っても負けないでしょう」と勧めたが、
 山背大兄王は「民を無用な戦で傷付け損なう事は望ましくない」として退けた。

 この時、生駒山に山背大兄王を発見したとの報告を受けた蘇我入鹿は、
 高向臣國押に捕獲するよう命ずるが、断られている。

≪上宮王家の滅亡≫
 同年11月11日、山背大兄王は生駒山を下りて斑鳩宮に舞い戻り、一族揃って自害した。
 山背大兄王の子である弓削王は、斑鳩宮に居る時、狛大法師に殺された。
 ここに 厩戸豊聡耳皇子うまやどとよとみみのみこの血を引く上宮王家しょうくうおうけは滅んだ。

 この合戦は、これを知った蝦夷は「自らの身を危うくする」と嘆いた通り、
 後の乙巳の変へと繋がって行く。

 ≪合戦に関わった人物のその後≫
 乙巳の変の後、即位した孝徳天皇の治世に、
 斑鳩宮を攻めた巨勢臣徳太は、650(大化5)年4月、左大臣に任命され、
 又、弓削王を殺害した狛大法師は、645(大化1)年8月、大化僧尼の詔により、
 十師とたりののりのしと云う仏教の最高指導層の 筆頭に任命されている。
 山背大兄王に、東国へ逃れるよう進言した三輪文屋君は、斑鳩宮の合戦以後、その名前は消える。

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