白村江の合戦(はくすきのえのかっせん)<663年>
唐・新羅連合軍[総大将:劉仁軌・文武王][兵:上定]
≪水軍≫
劉仁軌、杜爽、扶余隆
≪陸上部隊≫
孫仁師、劉仁原、文武王
倭・百濟連合軍[総大将:阿曇連比邏夫][兵:上定]
≪先発隊≫
阿曇連比邏夫、川辺臣百枝、狭井連檳榔、秦造田来津
≪本隊≫
上毛野君稚子、間人連大蓋、巨勢神前臣譯語、三輪君根麻呂、 阿部引田臣比羅夫、大宅臣鎌柄、廬原君
概略
660(斉明天皇6)年、百濟が唐・新羅連合軍により滅ぼされる。
倭國は滅亡した百濟の復興を援けるべく朝鮮半島へ兵を派遣したが、
白村江での戦いに唐・新羅連合軍に大敗北を喫し、朝鮮半島から撤退した。
推移

≪6~7世紀の東亜≫
 6~7世紀の朝鮮半島では、高句麗・百濟・新羅の三国が鼎立、倭國は半島南部の任那に勢力を持っていた。
 しかし、任那は百濟への領土割譲、新羅の侵攻により弱体化、562(欽明天皇23)年に新羅によって滅ぼされる。
 倭國は、新羅討伐と任那の奪還を狙う事になる。

≪百濟滅亡≫
 一方、支那大陸を統一して581年に建国した隋は、煬帝の指揮で高句麗に三度遠征するが、何れも失敗した。
 これが主な原因で煬帝は殺害され、隋は滅んだ。
 この後大陸を統一した唐も、同じく高句麗を三度に亘り遠征を繰り返すが、何れも失敗した。
 ここで、唐は遠交近攻の戦略を用い、高句麗・百濟に圧迫されていた新羅と接近、これと同盟を結んだ。
 ここに、新羅は唐の冊封体制に入った。

 659年、百濟が新羅北辺に侵入して占拠すると、唐の高宗は百濟討伐を決定し、
 660(斉明天皇6)年3月、蘇定方を将軍とする水陸10余万の兵を派遣した。
 唐・新羅連合軍によって、百濟の首都・ 泗沘城しひさしは陥落、
 更に百濟王義慈の逃亡した旧都・ 熊津城くまなれさしも陥落した。
 同年7月、義慈は降伏し、唐の都・長安へ護送されて、そこで病死した。
 百濟の旧領土には五ヶ所の都督府が設置され、唐の支配地となった。

≪朝鮮半島への遠征≫
 唐と新羅に滅ぼされた百濟の遺臣は、 鬼室福信きしつふくしん を中心にして百済復興の兵を挙げ、
 当時倭國に同盟の人質として滞在していた太子豊璋王を擁立しようとした。
 鬼室福信らは倭國に豊璋送還と、援軍の派遣を要請した。

 この要請を、倭國の主権を握っていた中大兄皇子は諸臣の反対を退け承諾、
 661(斉明天皇7)年12月、斉明天皇を始め、大海人皇子や中臣鎌足など、
 主だった重臣は難波宮から北九州に向けて船出した。
 この時詠まれた歌が、
 熱田津にぎたつに船乗りせむと月待てば、 潮もかないぬ今はこぎいでな
 と云う額田王ぬかたのおおきみの歌だが、 これは斉明天皇の言葉を額田王が表わしたとする説もある。

 百濟救援の遠征は、船出以前に中大兄皇子邸に放火されるなど、強い反発を招いた。
 前線基地となった筑紫でも、天皇の 行宮かりみや造営中に天皇の侍者が多数病死、
 更に7月になって斉明天皇自身も急死した。
 これには暗殺説もある。
 天皇の遺骸は難波に送還されたが、 遠征は中大兄の称制のもとに続行された。

≪朝鮮半島での抗争≫
 662年正月、豊璋を伴い、倭國の先発隊が渡海を開始した。
 大将軍阿曇連比邏夫あずみのむらじひらふ川辺臣百枝かわべのおみももえ狭井連檳榔さいのむらじあじまさ秦造田来津はたのみやつこたくつら に率いられた先発隊の兵力は、
 兵船170艘、兵員5千だった。
 同年3月、比邏夫は鬼室福信と合流する事に成功、直ちに豊璋を擁立し、
 5月に白村江(錦江河口)付近の周留城するさし を本営として、百濟王朝は国家といての体を成さないものの、再建された。

 翌663年には、三つに分かれた倭國の本隊が渡海した。
 前軍を率いるのは、 上毛野君稚子かみつけぬのきみわかこ間人連大蓋はしひとのむらじおおふた
 中軍を率いるのは、 巨勢神前臣譯語こせのかみさきのおみおき三輪君根麻呂みわのきみねまろ
 後軍を率いるのは、 阿部引田臣比羅夫あべのひきたのおみひらふ大宅臣鎌柄おおやけのおみかまえで、 総勢2万7000の軍勢だった。

 倭國の援軍と援助物資を得た百濟は士気が上がり、当初は唐・新羅連合軍を破った。
 しかし、翌663年になって唐が増援の劉仁軌率いる7000の水軍を派遣、
 これによって戦況は悪化の一途を辿る。

 この情勢の中で豊璋と鬼室福信は周留城に篭城するが、
 元々折り合いの悪かった二人は、新羅の離間工作もあって、上和になる。
 そして、同年6月、豊璋に謀反の嫌疑をかけられた鬼室福信は斬られた。
 豊璋は防御に適した州柔城を放棄するなど、状況の見誤りを起こした。

 同年7月17日に新羅の文武王は、自ら新羅軍を率いて出陣、劉仁軌の援軍と合流した。
 同年8月17日、陸からは孫仁師、劉仁原、文武王が、
 海からは劉仁軌、杜爽、扶余隆の軍勢が白村江に集結、 百濟の本営・周留城を包囲した。

 ≪白村江の合戦≫
 周留城の包囲を知った倭水軍は、急遽白村江に向かい、8月27日に着陣した。
 着陣後直ぐに攻撃を始めるが、唐水軍は迎撃態勢を整えて待ち構えていた。
 直ちに倭水軍を迎え撃ち、これを退ける。
 この戦いで倭水軍は敗退するものの、勝敗を決するには到らなかった。

 28日、倭水軍は唐水軍の堅陣に四度の突撃を敢行する。
 この攻撃で、唐水軍の陣形を乱そうとしたが、逆に倭水軍の隊伊が乱れ、
 ここを唐水軍に突かれて倭水軍は大敗した。
 1000艘の内、火計により炎上した倭の船は400余艘を数え、 多数の倭の将兵が溺死した。
 同時に陸上でも倭・百濟連合軍は、唐・新羅連合軍に破れ、総崩れとなった。

 ここに百濟復興は潰え、倭國の敗残兵は 弖礼城てれさしに逃れ、
 各地に転戦中の倭國軍及び百濟人亡命者を集めて、北九州へ帰還した。

≪戦後≫
 白村江の合戦の後、唐・新羅の報復と侵攻を怖れた中大兄は、 倭國の防衛強化を図る。
 662年2月に「甲子の宣かっしのせん《 を出して国内の上満を抑えた。
 664年には大宰府の水城を築き、665年に長門城(山口県)、 基肄城(佐賀県)、大野城(福岡県)、
 667年には屋島城(香川県)、高安城(奈良県・大阪府)、金田城(長崎県)など、
 西日本各地の朝鮮式山城などの防衛施設を建設し、侵略に備えた。
 壱岐・対馬・筑紫沿岸には防人を配備し、通信手段として狼煙台を設けた。

 669年、都を海に近い難波宮から内陸の近江・大津宮に移し、防衛網を形成した。
 その翌年、中大兄は即位し、天智天皇となった。

 665年、唐から劉徳高が使節の吊目で、2000の兵を率いて来日し、3ヶ月後に帰国した。
 帰国に際して、倭國側からは 守大石もりのおおいわらの送唐客使を 派遣している。
 669年、天智天皇は河内鯨かわちのくじら を遣唐使として派遣し、唐との有効関係強化を図っている。

 一方、朝鮮半島では、666年に唐と新羅が高句麗への攻撃を開始し、
 668年、二度に亘る攻勢によって、高句麗を滅ぼした。
 白村江の合戦の後、高句麗に亡命していた豊璋王は、捕らえられ幽閉された。

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