飛鳥争奪戦(あすかそうだつせん)<672(天武天皇1)年6月29日〜7月6日> |
大海人皇子[総大将:大伴吹負][兵:不明] |
大伴吹負、坂本財、紀大音、置始兎、三輪高市麻呂、紀阿閉麻呂、来目 |
近江朝[総大将:壱岐韓国・大野果安][兵:不明] |
壱岐韓国、大野果安 |
概略 |
壬申の乱に於ける戦い。 近江朝の河内方面軍と大海人皇子の大和方面軍が、要衝である飛鳥の争奪を展開した。 戦いを優勢の内に進めていた近江朝方の壱岐韓国と大野果安だったが、 当麻の合戦、箸墓の合戦の敗北により、大和を大海人皇子に握られる事になった。 |
推移 |
≪大伴吹負の挙兵≫ 皇位を天智天皇の子・大友皇子が継いだ事を嫌った大伴吹負は、大友皇子を見限って離反、 病を称して大和の地に隠棲していたが、大海人皇子の挙兵を知り、これに呼応して飛鳥で挙兵した。 6月29日、飛鳥古京の役人を味方に付け、 高市皇子が大軍を率いて来たとの虚報を、飛鳥寺西にあったとされる近江朝の陣営に流した。 この虚報を信じた近江朝の兵達が散り散りになった所を数十騎で攻め、 吹負は難なく飛鳥古京の指揮権を奪取した。 続いて、小墾田の兵庫(武器庫)に居た 高市皇子の命だと言って呼び寄せて百足を殺し、他の二人は監禁し、 武器を奪取した。 こうして飛鳥古京を占領した吹負は大海人皇子に使者を出し、大海人皇子は大伴吹負を将軍に任じた。 ≪近江朝の派兵≫ 近江朝は奪われた飛鳥古京を奪還する為、河内と奈良の二方面から飛鳥に向けて派兵した。 河内方面軍は壱岐韓国が率い、奈良方面軍は大野果安が率いた。 近江朝から軍が発したとの報を得た吹負は、当時の主要な街道であった竜田道・穴虫峠・竹内峠に兵を送った。 ≪大和戦線≫ 7月3日、 大伴吹負は壱岐韓国の河内方面軍を迎撃する為、 大和・河内の国境に位置する大坂に、 近くにあった高安城に近江朝軍が駐屯している事を知り、 坂本財はすぐさま攻め込んだ。 近江朝軍は、財の軍が攻め込んだのを見て、米倉を焼き払って撤退した。 7月4日、 河内方面軍を率いる壱岐韓国は、坂本財に落とされた高安城を攻めた。 これを見た坂本財は、懼坂道の守備を紀大音に任せ、自ら衛我河で韓国を迎撃した。 初め財が優勢に立つが、次第に数で圧倒され、懼坂道へと撤退した。 坂本財の軍を押し返した壱岐韓国はこのまま進軍を続ける筈だったが、 帷幕として参加していた河内国司 韓国が塩籠を詰問しようとした所、塩籠は自害し、軍勢の士気は下がってしまう。 この為、飛鳥古京を目前にしながら、韓国は軍の動きを停止せざるを得なかった。 7月4日、 大伴吹負は、乃楽山で近江朝の奈良方面軍の大野果安と戦うが、敗れる。 兵は散り散りになり、吹負は飛鳥から宇陀に向かって敗走した。 敗走する吹負を追撃した果安は、一気に飛鳥に入る。 飛鳥古京には、吹負が飛鳥守備の為に残した荒田尾赤麻呂らが兵力不足を補う為、 飛鳥川や八釣川に架かる橋板を外して、楯として並べただけの防衛をしていた。 しかし静か過ぎる飛鳥古京を見た果安は、吹負の退却は果安の部隊を飛鳥古京に誘き寄せる為の作戦と考えた。 大海人方の大和主力である吹負軍を敗走させたにも関わらず、 その隙を縫って進軍している筈の壱岐韓国が居なかった為に不審に思ったのだろう。 韓国の軍の状況を知らない果安は、飛鳥古京を目前にして撤退した。 この撤退により、近江朝の企図していた飛鳥古京への二方面からの攻撃は、失敗に終わった。 ≪当麻の合戦≫ 宇陀に逃れた吹負は、 同じく態勢を立て直した韓国は、大和・河内国境の大海人皇子守備隊を退け、 進軍を再開する。 7月5日、この二つの軍勢が、 この戦いで、吹負の配下の来目と云う兵士が、韓国の軍に捨て身の攻撃を行った。 この来目の勢いの前に韓国の軍は陣形が乱れた。 その隙を置始菟の騎兵が殺到し、韓国の軍は総崩れを起こして退却した。 逃げる韓国を吹負は来目に矢で狙わせたが、命中しなかった。 ≪箸墓の合戦≫ 当麻の合戦直後、紀阿閉麻呂が率いる大海人皇子軍増援部隊が到着。 6日、河内と奈良に派遣された近江朝軍は、飛鳥奪還の為、最後の攻勢をかける。 しかし、当麻の合戦に勝利して士気の上がる吹負と置始菟の軍に阿閉麻呂の軍が加わった事で、 最早勝利する事は叶わなかった。 この合戦で、大和での戦いの帰趨は決し、大和は大海人皇子の支配下に置かれる事になった。 この後吹負は、22日、難波に入り、ここを守備する近江朝軍を倒して難波の制圧に成功する。 この後、近江朝軍は瀬田唐橋に集結し、最後の抵抗を試みる。 |
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