有間皇子の変(ありまのみこのへん)<658(斉明天皇4)年>
中大兄皇子[総大将:中大兄皇子(33歳)][兵:不明]
中大兄皇子、蘇我赤兄、物部朴井鮪、(守大石?)、(板合部連楽?)
有間皇子[総大将:有間皇子(19歳)][兵:不明]
有間皇子、守大石、板合部連楽、塩屋[魚制]魚、新田部米麻呂
概略
中大兄皇子に不満を持っていた有間皇子が起こしたとされた政権転覆未遂事件。
有間皇子の存在に不安を抱いた中大兄皇子と、蘇我赤兄の策略に陥れられたとも云える。
推移

≪孝徳天皇と中大兄皇子≫
 645(大化1)年、乙巳の変の後の、6月14日、軽皇子は孝徳天皇として即位。
 皇子であった有間皇子ありまのみこは、 皇位継承権を持つ事となった。

 同年12月9日、孝徳天皇は都を難波宮に移す。
 しかし、孝徳政権での実力者であった中大兄皇子は、 孝徳天皇と新政権の運営で対立を深め、
 653(白雉4)年になって、孝徳天皇が聞き入れない事を見越して、 都を倭京に戻す事を要求。
 案の定、孝徳天皇がこれを退けると、
 中大兄は皇極上皇(宝皇女)や、皇后・間人皇女を含む皇族や臣下を連れて、 倭京に戻った。
 孝徳天皇は失意の中、翌654(白雉5)年10月10日に崩御する。

≪牟婁ノ湯への行幸≫
 翌655年正月3日、孝徳天皇崩御を受け、皇極上皇(宝皇女)が 飛鳥板葺宮あすかいたぶきのみやで、 再び斉明天皇として即位する。
 斉明天皇の皇子である中大兄は、次期天皇として有力な位置に居たが、
 前天皇の皇子である有間皇子は、彼の不安要素になった。

 657(斉明天皇3)年9月、有間皇子は身の危険を感じ、狂気を装って、
 紀伊国牟婁ノ湯むろのゆ (和歌山県白浜の湯崎温泉)へ湯治に向かう。
 帰京した後、有間皇子は病の快癒を斉明天皇に報告、
 それを聞いた斉明天皇は牟婁ノ湯への行幸を欲したと云う。

 翌658(斉明天皇4)年10月15日、斉明天皇は孫の健皇子の夭逝を悲しみ、
 傷心を癒す為に紀ノ湯(牟婁ノ湯と同地?)へ行幸する。
 この行幸に、中大兄を始め、重臣の多くが同行した為、
 留守官に蘇我赤兄が留まっていたものの、都は権力の空白地帯となった。

≪蘇我赤兄の罠≫
 斉明天皇一行が紀ノ湯へと行幸に経った後の11月3日、
 中大兄皇子の意を受けたと考えられる蘇我赤兄が、有間皇子を訪ね、
 斉明天皇や中大兄皇子の治世の三失を指摘した。
 三失とは、民の財産を徴収する重い税、 「狂心渠たぶれごころのみぞ」 を造営する土木工事、石の山丘の築造を云う。
 赤兄の態度を見て、有間皇子は「吾が年初めて兵を用いるべき時なり」と喜んだと云う。

 そして11月5日、有間皇子は赤兄を訪ね、樓閣に登って謀議をしたが、
 床几が折れ、これを不吉として謀反の中止を誓い合い、
 有間皇子は自宅のある市経いちぶ(奈良県生駒市)に帰って行った。

 しかし、この日の夜、赤兄は有間皇子の邸宅に 物部朴井鮪もののべのえのいのしび の率いる兵を派遣、包囲した。
 赤兄は直ちに中大兄皇子に使者を送り、有間皇子の謀反の計画を奏上した。

 11月9日、捕縛された有間皇子は紀ノ湯へ移送される。
 この謀反計画には、守大石もりのおおいわ板合部連薬さかいべのむらじくすり塩屋[魚制]魚しおやのこのしろが連座、
 又、有間皇子の舎人である 新田部米麻呂にいたべのよねまろ も、付き従った。

 中大兄の詰問を受けた有間皇子は、「天と赤兄と知らむ。吾もはら知らず」と答えたと云う。

 11月11日、中大兄の派遣した 丹比小沢連国襲たじひのむらじくにそにより、 有間皇子は紀伊国藤白坂に於いて絞首に処される。
 塩屋[魚制]魚と新田部米麻呂もこの時殺害され、
 守大石は上毛野国へ、板合部連薬は尾張国へそれぞれ流される。
 流罪に処された守大石と板合部連薬は、中大兄政権で赦されて活躍する事になるが、
 この事からこの二人は有間皇子側へ潜り込んだ、蘇我赤兄の協力者だとも見える。

 中大兄皇子は自らが推し進める政策が急進的であり、
 不満を持つ勢力が決して小さなものではない事が分かっていた。
 その勢力が担ぐ可能性の高い有間皇子を葬り去り、
 以降の政策推進に於いての不安要素を取り除く事に成功したのである。

≪有間皇子の歌≫
 11月11日、有間皇子が処刑場となる藤白坂に移送される途中に詠んだ歌二首が、『万葉集』に収められている。

 有間皇子、自ら傷みて松が枝を結べる歌二首。
 磐代の 浜松が枝を 引き結び ま幸くあらば また還り見む
 家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る

 この「結び松」は、名所として後世に伝わり、
 長意吉麻呂、山上憶良の歌、柿本人麻呂らにより、歌い継がれている。

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